第二次上田合戦までの話(2):犬伏の別れ
前回までの3行サマリー
- 豊臣秀吉が天下統一
- 秀吉逝去後の天下運営を誰がやるかで揉める
- 各大名、徳川派か反徳川派、どっちにつくかで悩む(悩まない人たちもいたけど)
ということを踏まえ、真田家は徳川と反徳川、どっちの勢力についたか、という話です。結論を先に言うと「両方」です。
話が長くなるので割愛しますが、色々とアレがあって、真田昌幸・信幸・幸村は犬伏というところで落ち合います。
ちょっと長いですがご容赦ください。
「おお、豆州殿。御苦労であった」
真田昌幸は、にこやかに、長男を迎えた。
「父上には、御健勝にて・・・」
「左衛門佐。酒がほしいのう」
幸村が信幸の背後で、
「ただいま、佐平次にいいつけまいてござる」
「まず、父上より・・・」
と、信幸が、昌幸の盃へ酌をした。
ついで、信幸の盃へ幸村が酌をし、つぎに幸村の盃へ信幸が酌をしてやった。
このさまを、安房守昌幸が凝と見つめて、
「これが、別れの盃にならねばよいが・・・」
だれにいうともなく、つぶやくようにいった。
ここからは三人で酒を酌み交わします。
が、団欒するために集まったわけではありません。
真田家が徳川につくのか、反徳川につくのか、これを決めるために集まっているのです。
その中で、
伊豆守信幸の、あくまでも徳川家康に従って今度の大事を切りぬけようとする決意は、その静穏な顔の色にはっきりと看て取れた。
また、父・昌幸が、上杉景勝と石田三成に与して戦おうとする決意も、このときは、もはや、
「うごかしがたい・・・」
までになっていたのである。
真田昌幸の唇がうごいたのは、このときである。
「豆州。徳川が勝てば、大事じゃぞ。大阪が、もみ潰されてしまうぞよ」
「そもそも、こたびの戦は、豊臣家をもみ潰さんがため、内府が仕掛けたものではないか、どうじゃ」
信幸は、こたえなかった。
「家康を残すのと、三成を残すのと、どちらが豊臣家の御為になる。わかりきったことじゃ。三成なればわがままは通るまいゆえ・・・」
「父上・・・」
「うむ?」
「豊臣家の御為と申すより、どちらが天下の為になりましょうか?」
「天下じゃと・・・」
「父上は、これより先、ふたたび天下取りの戦乱が相つづくことを、のぞんでおられますか?」
昌幸が、にやりと笑った。
「父上・・・」
「もう、よいわ。豆州、これで決まったのう」
「はい」
「内府は、さて、勝てるかな・・・?」
「かならず、勝ちをおさめられましょう」
「父上。では、これにて・・・」
「もう、行くか」
「はい」
「何も申すまい。おもうままにいたせ」
「かたじけのうござる」
「行くがよい」
「は・・・」
「左衛門佐。父上を、たのむ」
「心得ております」
その短い一語一語と、見かわす眼と眼によって、兄弟は、すべてを語り合っていたといってよい。
これが、かの有名な「犬伏の別れ」というやつです。
なんか、こう、グッとくるものがありますね。
なお、この場面を文字で起こしておきながらなんですが、大河ドラマ「真田太平記」がとても分かりやすいです。
ちなみに、ここで幸村を演じているのは、草刈正雄。
そう、真田丸で昌幸を演じた人です(10分30秒あたり)。
真田丸のキャストが発表されたとき、超絶興奮してました。
というわけで、昌幸・幸村は石田・上杉に、信幸は徳川につくということが決まりました。
なお、この時点で真田家は、正式には徳川配下にいたのですが、このタイミングで、こっそりと、しれっと上田城に戻ってしまいます。明言はしていないものの、反徳川になったということは徳川方にもしかと伝わったようです。
さて、ここからはいよいよ関ヶ原に向けて色々なことが動き出します。
次回は、その大きなウネリの中で、真田家がどうなっていったかを説明していきたいと思います。
(続く)
第二次上田合戦までの話(1):直江状
さて、ここからは第一次上田合戦と、第二次上田合戦の間のお話です。
この間、世の中がどうなっていったのかをザックリ説明してみます。
- 本能寺の変で信長が表舞台から去る
- 豊臣秀吉が明智光秀を討伐し、天下統一に向けて駒を進める
- 対立していた徳川家と真田家の和睦を、秀吉が仲介する
- この和睦に際して、真田信幸(昌幸の長男)と本多忠勝(徳川家臣)の娘に婚姻関係を結ばせる
- 秀吉が天下統一
真田家からしてみれば、今まで散々、徳川家と揉めていたので、和睦に対しては不服なところもあったみたいですが、天下人である秀吉に逆らえるわけもなく、この和睦を容認したそうです。
なお、この和睦以降、信幸は徳川寄りになり、昌幸・幸村は豊臣・上杉寄りになります。
さらにその後、
- 天下を統一した秀吉がこの世を去る
- みんなで「豊臣家を盛り上げようぜ!」と言っている傍ら、徳川家康は寝技・力技のオンパレードで豊臣派を懐柔し、徳川派閥を形成する
- これを良く思わない上杉景勝(豊臣派)が兵を揃え始める
- それを知った徳川家康は「上杉景勝が豊臣家に謀反を起こそうとしている」と言い掛かりをつける(お前が言うな状態)
- そこで家康は「謀反を起こすつもりがないのであれば、誓紙を持って私のところに来なさい、さもなくば謀反とみなす」と上杉家に使者を出す
今回は、ここらへんの話を少ししたいと思います。
前述の通り、家康は上杉家に「誓紙」の要求をします。
これ、ずるいですよね。誓紙を出さないと「豊臣に仇をなす者」扱い出来るし、誓紙を出せば「上杉家は徳川家に屈した」ということに出来る。どう返信しても負けてしまう。
ここで出てくるのが「直江状」です。
徳川からの誓紙提出の要請に対して、上杉景勝の腹心であった直江兼続名義で、こういう返書が家康に届けられます。
「・・・うわさによれば、わずか三里をへだてた京と伏見の間にさえ、さまざまな浮説流言がおこなわれていると聞きおよび申した。大阪と会津ほど、はるばると遠くはなれていては、徳川公の御耳へ、われらに謀叛の企てがあるとの流言が入ったとしてもふしぎではござるまい。
家康公は誓紙をよこせといわれるが、そもそも、わずか一年前に、亡き太閤殿下へ差し出した誓紙を反古になされ、諸大名と婚姻をむすんだは家康公御自身ではないのか。まことにもって、これは笑止千万なことではござらぬか」
そして、鋭く、
「わが上杉景勝には、いささかも謀叛のこころがないのに、いちいち、これをうたがい、何かと申さば大阪へ出てまいれといわれるる家康公こそ、われらには怪しくおもわれる。つまらぬ者が申し立てたことを真におもわれ、何事にもわれらのみを責めらるる家康公は、申さるることと為すことに表と裏がある、としかおもわれませぬ」
「いまは、なまけ者の上方武士が、高価な茶の湯の道具をあつめたりして悦に入っているそうでござるが、われら田舎武士は、いつの世にも武家の本道をわきまえ、武器をととのえ、人材をあつめることは当然のこととおもうております。
これは、その国々の風習が、それぞれに異なっているのと同様で、世間がさわぎ立てるのがむしろ可笑しい。武士が為すべきことをしているのに、それがふしぎだと申される。いやはや、天下も変わったものでござる。これも天下が、ふしぎなものになってきたからで、上杉景勝ごときが武器をあつめたところで、何程のことがありましょうか。
天下の仕置きをなさろうという徳川家康公にも似合わぬ、ふしぎな詰問でござる」
そして、「もはや千言万語は、不要のことでござる」と締めくくっています。
直江の返書を破り捨てた徳川家康は、ようやく怒りの色がさめた後に、
「さてもさても・・・わしは今年で五十九歳にもなるが、このように無礼な書状を、かつて見たこともない」
憮然として、つぶやいたという。
真偽のほどはともかく、こういう様々なイベント経て、
というのが、秀吉没から関ヶ原までの大まかな流れです。
さて、この合戦に際し、各大名は選択を迫られます。
というのも、石田三成・上杉景勝は「徳川家康は豊臣家を滅ぼそうとしている!」と言っている。
一方で、徳川家康は「石田と上杉は豊臣家を私物化しようとしている!」と言っている。
両者とも「豊臣家のためだ!」と言う点は変わらないのに、お互いのことを悪く言っているだけ。どっちも豊臣家のためなのであれば、仲良く折り合いつけろよな・・・と、きっとみんな思ったことでしょう。
とは言え、各大名は、徳川派か石田・上杉派のどちらかを選ばなければならなくなったわけです。
単に「石田三成が嫌いだから徳川家!」という人もいれば「徳川家康は確実に豊臣家を乗っ取ろうとしているから、俺は反徳川」という人もいるし、「どっちもどっちなんだよなあ」という人もいる。もう色々と混沌としています。
さて、そんな中、真田家はどちらにつくのか。
次回はそこらへんの真田家のやり取りについて説明してみたいと思います。
(続く)
第一次上田合戦(4):最後のトラップ発動
前回の話の3行サマリー:
- 徳川軍が上田城を攻撃
- 「塀がぺりぺり剥がれたんだってね」「かっこいい(囲い)」
- 「囲いから火が起きたんだってね」「へぇ(塀)」
さて、真田家のあの手この手により、這う這うの体で東へと撤退する徳川軍。
ここで最後のトラップが発動します。
これより先、源三郎伸幸は三百余をひきい、三の丸外の横曲輪の北口から出て、東太郎山の山裾を東へ向い、疾駆している。
この一隊が、神川のほとりへあらわれると、矢沢の砦から、ここまで出て来ていた矢沢但馬守頼康が、五百の部隊をひきいて駆け寄ってきた。
神川をへだてて、源三郎と矢沢頼康の両部隊が、南下しはじめた。
と、このとき・・・・・・。
東太郎山の中腹から、狼煙があがった。
黒雲におおわれた空に、狼煙の白いけむりが打ちあげられたのは、堰止めておいた神川上流の水を、
「切って落とせ」
という合図であった。
これが、最後のトラップです。
その頃の徳川軍と言うと、相変わらず混乱しながら東へ逃げています。
必死に城下を逃げぬいた徳川軍は、もはや、ふみとどまって真田勢を迎え撃つ気力をうしなっていた。
というよりも、これ以上、戦いつづけては、なおも痛烈な襲撃を受けるようなおもいがして、
「ともあれ、千曲川をわたれ」
と、大久保忠世は、使い番を八方へ飛ばした。
千曲川沿いの道を東へ逃げる鳥居部隊も、ついに、源二郎幸村の一隊に追いつかれた。
私の想像も入りますが、多分、こんな感じだったと思われます。
一方では、大久保忠世の本体をふくむ徳川軍が、これも反撃を繰り返しながら、東へ、神川のほうへ向かって退却しつつあった。
ところが、神川の岸辺へもどって見ると、堰を切られた奔流が渦巻き、川の様相がまったく変わっているではないか。
これでもかというぐらいの八方塞がり。
さて、一瞬話は逸れます。
「神川の岸辺へもどって見ると、堰を切られた奔流が渦巻き、川の様相がまったく変わっているではないか」の部分についてです。
神川、そんなに小さな川ではないんです。人為的にそんな状況を作り出すのであれば、相当な量の水が必要ですし、ここはかなり眉唾。江戸時代の講談で盛られた話じゃないかと推測しています。
ただ、この戦闘があった時期は9月ぐらいなので、大雨が降って川の水かさが増えて、簡単には渡れなかった、というのはあり得る話です。
話を戻します。
東は氾濫した神川に遮られ、北と西からは真田軍、南は大河である千曲川。
徳川軍、完全に追い詰められます。
あとは真田が徳川を完膚無きまで打ちのめすだけ!という場面で、真田昌幸はこういう判断をします。
「これでよし」
安房守昌幸は、敗走する徳川軍に対し、
「これまでじゃ。追うな」
と、いった。
木村土佐・禰津長右衛門などが、
「いま一息でござる。どこまでも追わせられるがようござる」
進言をすると、昌幸はかぶりを振って、
「図には乗らぬものよ」
「なれど、せっかくに、ここまで浜松勢を・・・・・・・」
「申すな。日暮れも近い。それに、味方は小勢じゃ。有体の姿を敵に見きわめられてはなるまい。また、味方は朝からの戦で疲れ切っていよう」
断固として、引きあげを命じたのである。
そうなんです。
なんだかんだ言って、真田は結局二千しか兵がいないんです。
下手に追い打ちをかけて、兵力差で巻き返され、兵力二千を削られるよりも、「まだ何かあるかも・・・」と疑心暗鬼にさせ、攻めにくくさせる方が安全なのです。
「勝つ」ではなく「負けない」という孫子的なアプローチですかね。
これで、第一次上田合戦は幕を閉じます。
その成果はどんなものだったのか。
上田城へ引きあげて来てみると、味方の損傷は意外に少なかった。
ある戦記には、
「合わせて四十余名」
などとあるが、まさか、それほどに少なくはなかったろう。
真田方の、死傷者の数は、よくわかっていないが、上田城の内外に遺棄された徳川軍の死体は千に近かった。
これに、朝からの死傷者をふくめると、二千余の戦死者があったのではないか・・・・・・。
この後、徳川軍は、一番最初に布陣した八重原まで撤退します。
「え?そんなに撤退する?」ぐらい撤退していますね。
八重原の台地へ後退をした徳川軍は、
「こうなれば、せめて、丸子城を攻め落とそう。それでなくては・・・・・・」
それでなくては、主人の徳川家康に、
「顔向けもならぬ」
というわけだ。
何だかいきなり新しい城の名前が出てきますが、ここです。
だが、すかさず、真田勢が出撃して来た。
大勝利の休息をとった真田勢の闘志は燃えさかっている。
これに背後をおびやかされ、ついに、徳川軍は丸子城もあきらめてしまうのである。
この後も暫く戦いが続き、
徳川家康は、味方の敗北を聞き、
「童が戦あそびをしておるのか・・・・・・」
こうなると、戦闘のスケールは、ひとまわり大きくなった。
上杉の背後には、羽柴秀吉が在る。
となれば、ふたたび、家康は秀吉と戦うことになりかねない。
いずれにせよ、信州・上田にこだわっていては、徳川家康の不利になることが明白となった。
家康自身、大軍をひきて、わざわざ上田まで出陣するとなれば、たとえ上田を落とせても、その隙に、遠い自分の領国がどうなってしまうか、知れたものではないのだ。
家康は、浜松をはなれることができぬ。
また、これ以上の兵力を上田へさしむけるわけにもまいらぬ。
「見のがしてはおくまい」
なのである。
賢明な徳川家康は激怒と意地立てを、みずから克服し、いまは、いさぎよく、上田攻略をあきらめることにしたのであった。
こうして、ついに徳川軍は、八重原の台地を引きはらい、浜松へ引きあげて行ったのである。
というわけで、徳川軍が完全撤退します。
それにしても、二千で一万の兵を追い払うってすごいことですよね。
上田市出身でもない私が「すごい」と思うぐらいなので、上田市出身の人はさぞかし誇らしいのだろうな、と思っていたら、本当にそうでした。
以下、上田高等学校の校歌(2番)の歌詞(校門近くの立て看板に書いてありました)。
関(くわん)八州の精鋭をここに挫(くじ)きし英雄の
義心(こころ)のあとは今もなほ松尾が丘の花と咲く
以上、第一次上田合戦の話でした。
さて、ここからは、関ヶ原に向けて時代が一気に動き始めます。
次回以降はそこらへんを説明していきたいと思います。
(続く)
第一次上田合戦(3):トラップ祭り
前回の話の3行サマリー:
- 真田家による奇襲は成功したものの、徳川軍、まだまだ健在
- 徳川軍がいよいよ上田城に迫ってきた
- 駅前でチャリを借りるなら電動自転車にしておいた方がいい
というわけで、徳川軍が上田城に迫ってきました。
まず、全体像をつかむために、上田城の縄張りを説明しておきます。
上から見るとこんな感じです。
今でこそ、丸の内には建物がたくさんありますが、当時は武家屋敷やら、ちょっとした防御施設などがあったと思われます。
なお、上図では、徳川軍が東側から攻めていることが確認できます。
では、なぜ、他の方角から攻めなかったのか。
以下は、(江戸時代に入ってからのものですが)当時の上田城の縄張りです。
これを現代の地図に落とし込むと、こんな感じです。
よって、徳川軍からしてみれば、「東側から攻めるしかない」ということだったと思われます。良く設計されてるわー。
ちなみに、上田城の南の、川があった場所から上田城を見上げると、こういう感じです。
これを登れ、ってのはちょっとキツイ。
ということを踏まえ、徳川軍は上田城の東から責めることにします。
まずは三の丸へと突入し、真田軍と交戦します。
ただ、開始早々、
三の丸で防戦していた真田勢は、呆気もないほどに抵抗をやめて、逃げ込んだ。
どこへ逃げ込んだかというと、三の丸の曲輪内にもまた〔横曲輪〕が設けられてい、そこへ逃げ込んだのである。
真田軍、なぜ戦わずして早々に横曲輪に逃げ込んだのか。
ここらへんは後ほど発動するトラップの伏線となりますので一旦割愛。
三の丸内の横曲輪は、三の丸外のそれとは、まったくちがう。同じように仮設したものだが、土居の築き方といい、土を塗った塀といい、前面の壕の幅は約十五メートルもあり、満々と水がたたえられ、逃げ込んだ将兵を収容した〔はね橋〕は、たちまちに捲きあげられてしまった。
横曲輪は、江戸時代には武家屋敷となり、現在では上田高等学校になっています。
当時の門とかがそのまま残っています。
超かっこいい。
さあ、そんな肩透かしを喰らった徳川軍、ここからどうするかと言うと、この横曲輪は無視し、三の丸をガシガシ進み、二の丸の外まで兵を進めます。
外の横曲輪が無抵抗のままに、三の丸へ突入した徳川軍は、勝ち誇っている。
二の丸の城門は、目の前に在るのだ。
二の丸を突破すれば、本丸を残すのみとなる。
平坦な曲輪であるし、これまでの経過を見ても、やはり上田城は、まだ完成をしていないと、徳川の将官たちは看た。
それに、三の丸外の横曲輪を苦もなく突破した連鎖反応もあって、徳川軍はまっしぐらに二の丸へ直進した。
というわけで、徳川軍が二の丸まで兵を進めます。
その二の丸、どうなっているかというと、
二の丸の壕には、いくらか水が入っている。
それも、人が入って胸が出る程度のものなのだ。
今は水はありませんが、当時はあったという前提で。
二の丸・大手口の〔はね橋〕は、むろん、捲きあげられていた。
二の丸の石垣には塗塀がめぐらされてい、大手口には櫓がたち、これらのものを、雑木の枝がおおいつくしている。
ということで、徳川軍が二の丸を攻め始めます。
徳川軍は、鉄砲を撃ちまくり、城内からの弾丸や矢が途絶えたのを見るや、
「それっ!」
荒波が厳頭へ打ち寄せるように押し詰めて行った。
兵たちが壕の中へ飛び込み、押しわたって石垣へ取りつく。
いざ、戦ってみると、当初の、敵の先手組の奇襲は凄烈そのものであったが、ちからつきたとみえて退却してのちは、こちらの一方的な突進によって、敵の本城へ押し込むことができた。
もともと、徳川軍は、上田攻めを軽く看ていたこともあり、実際に戦ってみて、
(やはり、この程度のもの・・・・・・)
と、おもったのであろう。
ともかく、敵の本城を、いまやまさに、打ち破ろうとしているのであった。
徳川軍が、石垣の石も見えぬほどに這いのぼりつつある。
ここに「石垣の石も見えぬほど」人が群がっていたとか、ちょっと気持ち悪い。
「真田の命運も、もはや、これまで」
と、だれの目にもそう映ったのだが・・・・・・。
異変は、このとき、突如として起こった。
塀が崩れ始めたのだ。
石垣の上の塗塀が、めりめりと軋みはじめ、かたむきかけた。
ここらへんは、想像力をフルに働かせなくてはいけないのですが、この石垣の上に塀があって、それがめりめりと剥がれた、ということですね。
「ああっ・・・・・・」
「何じゃ、あれは・・・・・・?」一部の徳川の将兵がこれに気づいたときは、すでに遅かった。
一部の塀ではない。
石垣の上の、大半の塀が見る見るうちにかたむき、その上をおおいつくしていた雑木の枝が、いっせいに、石垣をのぼりつつある徳川軍の頭上へ落ちかかった。
いや、木の枝ならば、何でもない。
木立かとおもわれるほどに、こんもりと塗塀の上をおおっていた雑木の枝や葉に隠されていたのは、一抱えもあるほどの樹木であった。枝も葉も残したままに近くの山々から伐採してきたのを、横ざまに塀の上に吊り掛けておき、これをいっせいに落としたのである。
樹木のみか、石塊までも仕掛けてあった。
石垣を埋めつくしてのぼりつつあった徳川軍は、落下する樹木と石に打ち叩かれ、絶叫、悲鳴をあげて壕へ落ちこむ。
水堀にゴロゴロと大量の人が落ちていったのでしょう。
なかなか壮絶。
驚き騒ぐ徳川軍へ、弾丸と矢が激しく襲いかかった。
壕の水へ落ちた将兵は、
「なすところもなく・・・・・・」
弾丸と矢を受けて倒れる。
逃げようにも逃げられなかった。
今度は壕の中が味方で埋まり、押し合い、へし合い、もがきぬいている頭上から弾丸や矢が撃ちこまれるのだから、たまったものではない。
確かに「たまったものではない」なのですが、ただ、改めて考えると、徳川軍は一万人もいるわけです。
よって、塀が剥がれようが、鉄砲やら矢が撃ち込まれようとも、数にものを言わせてどうにかしてしまえば良いわけです。
ましてや、塀が剥がれたということは、あとは、石垣さえ登りきれば城内に入れてしまうのです。
むしろチャンス。
ところが、そうはならなかった。
真田方の反撃は、これで終わったのではない。つぎの瞬間には、三の丸内の横曲輪が炎をふきあげはじめたものである。
真田方が、われから横曲輪へ火を放ったのだ。
さっきの戦いで「横曲輪に逃げ込んだ」人たちによるものですね。
北西の風に煽られた黒煙と炎が、そのまま、三の丸を埋めつくしている徳川軍へ襲いかかった。
「ひ、引けい、引けい!」
引くよりほかに、道はないではないか。
徳川軍が、三の丸から引き上げはじめた。
壕の中の将兵を救出する間もなかった。
〔はね橋〕が下りてきたのは、このときである。
同時に、颯と二の丸の城門が開かれた。
「それ、突き入れよ!」
真田安房守昌幸が、大声に下知をあたえるや、
「応!」
こたえて、樋口角兵衛が五名の牢人を従え、真っ先に〔はね橋〕を駆けわたった。
源二郎幸村も〔はね橋〕をわたり切った。
安房守昌幸も槍を振り翳し、みずから飛び出して来た。
(しまった・・・・・・深入りをしすぎた・・・・・・)
これでは、十の兵力が二か三に減ってしまったのと同じである。
なんとしても城外へ引き、ひろい場所で、少数の敵と戦わねばならぬ。
ようやく・・・・・・。
徳川軍が、三の丸の外へ引き退くと、今度は三の丸外の横曲輪から、新手の二百余が繰り出して来て襲いかかる。
この「三の丸外の横曲輪」がどこだったのかが分からないのですが、まあ、三の丸の外のどこかにあったのでしょう。
またしても、
「引け、引けい!」
であった。
時刻は、昼に近くなっていたろう。
黒雲の層は、いよいよ厚く空をおおっている。
上田城の大手口から、攻め込んで来た道を、徳川軍は引き退いて行く。
城下を出外れた、ひろい場所で、今度は何としても勝たねばならぬ。
街路を走りぬけ、隊伍も別れて、徳川軍が撤退しつつあるとき、城下町の諸方から、突然、火の手があがった。
なお、この「城下町の諸方から、突然、火の手があがった」ところ、現在はこんな感じ。商店街です。
むろん、徳川方が放火したのではない。
真田の草の者が、掘り穴を伝わって城下へ入りこみ、火を放ったのである。
「草の者」というのは、いわゆる忍者のことです。
その「草の物」があたりに火をつけた、ということです。
ただ・・・掘り穴ねえ。
実際にそんなものはあったかは不明。やや眉唾。
いずれにせよ、
これは徳川軍の敗退を決定的なものにしたといってよい。
油でもつかったものか、火は、たちまちに燃えひろがっていく。
徳川軍が、まさに、
「算を乱す・・・・・・」
態となったのは、是非もなかった。
黒煙が渦巻く民家や屋敷の屋根の上へ、どこからともなくあらわれた軽武装の男たちが、下の道へ逃げる徳川軍へ、矢を射かけた。
たまらん!となった徳川軍は、このカオスを抜け切り、本格的に撤退を始めます。
が、しかし、
真田勢の迫撃も熄まないのである。
向井佐平次は長槍をつかみ、源二郎幸村の馬側に引きそっていた。
鳥居元忠の撤退路は、まだしも、逃げ足を速めることができたわけだが、常田口や染屋口から引き退こうとして城下町へもどった徳川軍は、さんざんな目に合わされた。
ケッチョンケチョンにやられた徳川軍に対して、真田軍、最後のトラップを発動させます。そこらへんを次回説明したいと思います。
(続く)
第一次上田合戦(2):ゲリラ戦、再び
ここまでの話の3行サマリー:
- 徳川家に反抗した真田家に対して、徳川が一万の軍勢を派遣
- 真田家が神川で奇襲をかけ成功
- ヤッタネ!
というわけで、真田家の奇襲を受けた徳川軍、混乱を立て直し、神川を渡ります。
徳川軍の大半が神川をわたろうとしているし、鳥居部隊は、早くも川をわたり、堅固に陣備えをした。
これなら、もう、大丈夫である。
真田昌幸の総軍は二千余だ。
そのうちの何割かが城外へ出て来たとしても、一万の徳川軍を防げるわけがない。
ところがどっこい。
再び奇襲が始まります。
徳川軍が神川をわたりかけたとき、対岸の上流から、岸辺の道を押し出て来る真田勢が見えた。
およそ、四、五百の部隊である。
前回の奇襲が小規模だったのに対して、今回は五百ほど。
ただ、徳川家の側面を突いているとは言え、たった五百で一万を攻撃するわけなので、かなり無謀です。きっと「必死」だったのでしょう、
それは、旋風のような突撃であった。
長身の、黒い具足をつけた若い武将が槍をかざし、これを両側から七、八名の騎士がまもり、真っ先に川へ乗り入れて来た。
この「若い武将」というのは、真田昌幸の長男、伸幸。
この写真は真田幸隆(昌幸の父、例の武田家の部長職)のものとされているので、伸幸の甲冑ではないものの、多分、こんな感じなんじゃないかと。
さて、ここから真田伸幸率いる五百による猛攻が始まります。
約五百の部隊が参加し、
「うわあ!」
喊声をあげて突き進む。
「それ!」
徳川軍も、これを迎え撃ったが、此処は広闊の戦場ではなかった。
ひろい戦場ならば、むろん、馬上にあって戦うのが有利である。
敵の徒士を蹴散らし、馬上から突き捲り、叩き伏せることができる。
しかし、いまは、せまく細長い道すじを突破して来る真田勢を、徳川の騎士たちは北面の斜面や木立に、いったんは避けねばならなかった。
南面は、すぐに千曲川である。
そこへ、兵を展開されるということは、川の中へ飛び込むことになるのだ。
千曲川は、神川とくらべものにならぬ大河であった。
地図で見る千曲川。
近くで見る千曲川。
確かに「神川とくらべものにならぬ大河」です。
で、ここからは徳川軍が、
「千曲川まで追いやられたらヤバイ、押し返せ!」
「よし、押し返したぞ!攻めろ!」
「あっ、また真田の奇襲だ!」
みたいな状況が暫く続きます。
そんなゲリラ戦を繰り返した真田軍ですが、軍を引き始めます。
「あっ・・・・・・」
徳川軍が、呆気にとられた。
いままで、猛烈に突き込み、本体へ襲いかかかっていた真田勢が反転するや、退却にかかったからである。
駆けもどって来る真田勢を迎え撃とうとするとき、源三郎伸幸を先頭に、真田勢が北側の斜面へ折れ曲がって行く。
ただの斜面ではない。
雑木林や、道もついていない赤土の、すべりやすい斜面なのである。
今でこそ舗装はされていますが、かなり急斜面です。
なお、私、駅前で借りたチャリで移動していたのですが、この坂は手押しで登りました、というぐらいの急斜面です。その上に赤土なわけですから、相当大変です。
その相当大変な中、徳川軍、頑張って追いかけます。
そして、この急斜面を登ってみると、
迫撃する徳川軍の前に視界がひらけてきた。
なだらかな段丘の彼方に、敗走する真田勢が、はっきりとのぞまれる。
「なだらかな段丘」です。
「蒼き衣を纏いて金色の野に降りたつべし」感がすごい。
という、一連のシーンを再現してみました(継続対応中・・・)。
こうして真田信幸の奇襲は成功したわけです。
さて、この緒戦の結果はどうだったかと言うと、
神川の奇襲で、徳川軍が受けた損害は、死傷合わせて四、五百にのぼっていたろう。
あとでわかったことだが、真田勢の損害は意外にすくなかった。
ただ、徳川家からしてみれば失った兵力は一万のうち五百。まだ問題なく戦えます。
徳川軍は、隊伍をととのえ、一手は千曲川に沿った往還から常田口を突破した。
これを指揮するのは、鳥居元忠である。
「常田口が破れまいた」
「染屋口も、破れてござる」
と、物見の報告が上田城へとどいたとき、安房守昌幸は、本丸居城の主殿で、家臣の禰津長右衛門を相手に、碁を打っていた。
昌幸は、まだ、具足もつけていない。
「いよいよ、来たか・・・・・・」
白い碁石をつまんでいたのを、ひょいと碁盤の上へ置き、
「長右衛、これまでじゃ」
と、いった。
立ちあがった真田昌幸を待ちかまえていた家来たちが、具足を着せかけた。
伊予札の黒糸縅胴丸の具足で、草摺に金箔で六文銭の家紋が捺してある。
少年用かとおもえるほどに小さな具足を昌幸はかるがると身につけ、月輪の前立のある梨打の兜をかぶった。
これは大河ドラマ真田丸で使用されたやつらしいのですが、大体こんな感じかと思われます。
で、具足をつけながら準備をしていると、
新しい物見の武士が主殿へ駆け込んで来て、
「源三郎様が、染屋口から御城へ向かって、引きあげてまいられるそうにござります」
大声に告げた。
昌幸の側にいた家来たちが、源三郎の無事を知って、よろこびの声をあげるのへ、安房守昌幸が、むずかしい顔つきで、
「さわがしい。しずかにせぬか」
と、叱った。
「はっ」
家来たちは、押しだまったが、どの顔も笑っている。
こらえきれぬ笑顔であった。
そりゃそうですよね。
一万に対して五百で臨んだわけなので、誰もが「もしかしたら・・・」を覚悟していたはず。
さあ、先制攻撃で勝利した真田家。
次は上田城で徳川軍を迎え撃ちます。
次回はそこらへんの話をしていきます。
(続く)
第一次上田合戦(1):神川でのゲリラ戦
さて、前回からの続きです。ここまでの話を3行で要約すると:
- 徳川が一万の大軍を送り込んできた
- 真田は二千しか集められない
- ヤバイ
というわけで、第一次上田合戦が開始します。
さて、まずは、「2,000人(真田)と10,000(徳川)って実際、どのぐらい規模なの?」ということを確認してみましょう。
実際の縮尺で真田軍と徳川軍を地図に落とし込んでみました。
・・・さっぱり分からない。
ということで、わかりやすくするために、試しに渋谷駅近辺に真田軍と徳川軍を配置してみます。
真田軍は、スクランブル交差点から109ぐらいまで。
あれ、なんだろ?そんなに多くない気がする。いや、多いけれども、何なら「渋谷のハロウィンがどうのこうの」と毎年ニュースでやっていますが、そっちの方がはるかに人が多いということか。
(調べてみたら、ハロウィン時期の渋谷は一日で100万人集まるそうです、それはそれで何かがおかしいが)。
いずれにせよ、こういう規模感で戦いが始まった、ということでご理解頂ければ。
ここからの話は、池波正太郎の真田太平記を引用しながら説明していきます。
この年、天正十三年(西暦一五八五年)閏八月一日は、現代の九月二十四日にあたる。
すでに、一万余の徳川群は、千曲川南崖の台地、八重原(長野県北佐久群御牧村の内)に本陣を構えていた。
距離的には15km、歩くと2時間44分です。
八月二日の夜が明けたとき、徳川軍の先方は、千曲川を北へわたっていた。
このとき、徳川軍の先鋒・諏訪頼忠の部隊は、神川の東岸へ達している。
この地点から上田城までは、一里そこそこである。
一里は約7km。徒歩なら57分。
ここで 徳川軍が「神川」という川を渡り始めます。
位置的にはこんな感じです。
これだと分かりづらいので、拡大版も載せておきます。
さあ、この川を渡ってしまえば、上田城はもう目前ということで、
「それっ!」
諏訪部隊が神川をわたりはじめた。
神川はこんな感じです。
川の流れは多少早いぐらいなので、気をつけて渡れば問題なさそうです。
そんな神川を徳川軍1万人が少しずつ渡り始めたそのとき、
突如、神川の上流の方から、人馬の響みがわき起こった。
これは対岸からではなく、神川の東岸の、諏訪部隊が川をわたるために集結をしている側面の雑木林の中から起こったものである。
「あっ・・・・・・・」
まさに敵と看て、諏訪勢が態勢をととのえる間もなく、雑木林の中からあらわれた真田の鉄砲隊が、いっせいに火蓋を切った。
鬨の声をあげ、槍をつらね、真田の部隊が雑木林からあらわれ、猛然と、諏訪部隊へ突入してきた。
地図で表すとこんな感じですかね。
近くで見るとこんな感じです。
今はそうでもないですが、当時は雑木林がたくさんあったのでしょう。
そこに隠れていた真田のゲリラ部隊が、徳川軍の側面を突きます。
諏訪頼忠の部隊は、たちまちに突き崩され、神川の東岸を千曲川の方へ散り散りになって押し捲られた。
諏訪部隊のうしろから進んで来た柴田・岡部の両部隊が、諏訪勢を救援すべく川岸へ押しつめたとき、早くも、真田の奇襲部隊は神川の対岸へ引きあげているではないか。
その速さと、一糸みだれぬ用兵には、諏訪頼忠が茫然となった。
「さわぐな!」
と、鳥居元忠が、馬上に背をのばし、
「諏訪勢にかまわず、一時も早く、川を押しわたれ」
下知をしたのは、さすがである。
落ち着きを取り戻した徳川軍は、再び神川を渡り始めます。
(続く)
第一次上田合戦(前段)
池波正太郎の真田太平記をなぞりながら、実際の写真と共に事実の掘り下げを少しだけ行うブログです。
よろしくお付き合いください。
まず、真田家の成り立ちについてスーパーざっくり説明してみたいと思います。
- 真田幸隆という人が長野県にいた。勤務先は武田家。ポジションは部長ぐらい。
- 幸隆が死ぬ。なんだかんだあって昌幸が真田家を継ぐ。
- 武田信玄が死ぬ。息子である武田勝頼が跡を継ぐが、なんだかんだあって織田家に潰されてしまう。
- 武田家滅亡により、真田昌幸、いきなり無職。なんだかんだあって、地元に戻って独立。
以上、真田家のざっくり説明です。
次に、真田家が、当時どういう立場だったのかを軽く説明しておきます。
真田昌幸がいた地域は、下図の通り。名だたる強豪たちに囲まれています。
ここらへんの地域は元々、武田家が支配していたのですが、武田家が滅亡したことで、いきなり広大な空白地帯ができたわけです。
そこで、この空白地帯狙いに、各強豪たちがここの地域抑えるべく動き始めるわけです。
さて、そんな中、真田家は、「さすがに自分たちだけの力では生き残れない、どこかの傘下に入らないと・・・」ということで、織田家の傘下に入ります。これで一安心。
ただ、直後に一大イベントが発生します。
本能寺の変です。
今までは、織田信長が天下を統一すると誰もが思っていた。
だから、とりあえず織田家についておけば死ぬことはない。
ところが、その第一人者がいきなり表舞台から消えた。
これにより、
「織田さんいなくなったけど、誰につけばいいの?」
「というか、むしろ自分の領地が攻められるんじゃないか・・・」
全員が疑心暗鬼になり、一触即発モードになります。
そんな不安定な情勢の中、真田家は上杉の傘下に入ります。
ただ、その後「やっぱやめた、北条と手を組む」「やっぱり徳川にするわー」と、二転三転します。
なお、徳川家の傘下に入る際には、徳川家にこう持ちかけます。
「徳川さん、おたく、上杉家と北条家とあんまり仲良くないじゃないですか。なので、そっちの戦いに集中してください。代わりにうちが上杉家を牽制しておきますよ。ただ、うち、上杉を抑えるための実力ないんですよ・・・城建てるんで支援してもらえないですかね?」
(先ほどの図)
徳川からしてみれば、隣国の北条家の方が圧倒的な脅威なので、真田家が上杉を抑えてくれるのはありがたい限り。
そこで資金援助が行われ、上田城が完成します。
ただ、そう思ったのも束の間、今度は徳川家と北条家が同盟を結びます。
その際に北条家から徳川に提示された条件というのが「真田家が所有している沼田を差し出せ」というものでした。
この沼田城、北条家目線で言えば、上杉家を牽制する上では地政的に抑えておきたい要衝です。さらに、過去何度か沼田城を攻略しようとしたのですが、失敗したり、奪い返されたりと、北条からすると目の上のタンコブ的な場所。
その北条家からの条件に対して徳川家、こうなります。
「あれ?沼田城って真田家の城だよね?さすがに真田家から勝手に取り上げて北条に渡すのはまずくない?・・・ま、いっか!真田家には城建ててあげたし、後付けで言いくるめちゃえば」
ということで、真田家との合意なく、北条家の条件を飲んで同盟を結んでしまいます。
真田昌幸、これを聞いてビックリ。
「いやいや、すごいな、そのジャイアニズム」
と、徳川からの使者を追い払います。
それに対して徳川家、
「のび太真田家のくせに生意気だぞ!」
・・・と言ったかどうかは知りませんが、一万の大群を真田家の上田城に送り込むことにしました。
一方の真田。どう頑張っても兵が二千しか集まらない。ヤバイ。
まずは、過去に裏切ったことのある、上杉景勝の元へ傘下に入れてもらうようにお願いに行きます。ここらへんは以下、真田太平記の動画が分かりやすいです。
ということを踏まえ、真田家は上杉家の傘下に入ります。
さらに、多少ですが、上杉家から兵を借りることにも成功しています。
以上のような背景を元に、第一次上田合戦が勃発します。
(続く)