第一次上田合戦(3):トラップ祭り
前回の話の3行サマリー:
- 真田家による奇襲は成功したものの、徳川軍、まだまだ健在
- 徳川軍がいよいよ上田城に迫ってきた
- 駅前でチャリを借りるなら電動自転車にしておいた方がいい
というわけで、徳川軍が上田城に迫ってきました。
まず、全体像をつかむために、上田城の縄張りを説明しておきます。
上から見るとこんな感じです。
今でこそ、丸の内には建物がたくさんありますが、当時は武家屋敷やら、ちょっとした防御施設などがあったと思われます。
なお、上図では、徳川軍が東側から攻めていることが確認できます。
では、なぜ、他の方角から攻めなかったのか。
以下は、(江戸時代に入ってからのものですが)当時の上田城の縄張りです。
これを現代の地図に落とし込むと、こんな感じです。
よって、徳川軍からしてみれば、「東側から攻めるしかない」ということだったと思われます。良く設計されてるわー。
ちなみに、上田城の南の、川があった場所から上田城を見上げると、こういう感じです。
これを登れ、ってのはちょっとキツイ。
ということを踏まえ、徳川軍は上田城の東から責めることにします。
まずは三の丸へと突入し、真田軍と交戦します。
ただ、開始早々、
三の丸で防戦していた真田勢は、呆気もないほどに抵抗をやめて、逃げ込んだ。
どこへ逃げ込んだかというと、三の丸の曲輪内にもまた〔横曲輪〕が設けられてい、そこへ逃げ込んだのである。
真田軍、なぜ戦わずして早々に横曲輪に逃げ込んだのか。
ここらへんは後ほど発動するトラップの伏線となりますので一旦割愛。
三の丸内の横曲輪は、三の丸外のそれとは、まったくちがう。同じように仮設したものだが、土居の築き方といい、土を塗った塀といい、前面の壕の幅は約十五メートルもあり、満々と水がたたえられ、逃げ込んだ将兵を収容した〔はね橋〕は、たちまちに捲きあげられてしまった。
横曲輪は、江戸時代には武家屋敷となり、現在では上田高等学校になっています。
当時の門とかがそのまま残っています。
超かっこいい。
さあ、そんな肩透かしを喰らった徳川軍、ここからどうするかと言うと、この横曲輪は無視し、三の丸をガシガシ進み、二の丸の外まで兵を進めます。
外の横曲輪が無抵抗のままに、三の丸へ突入した徳川軍は、勝ち誇っている。
二の丸の城門は、目の前に在るのだ。
二の丸を突破すれば、本丸を残すのみとなる。
平坦な曲輪であるし、これまでの経過を見ても、やはり上田城は、まだ完成をしていないと、徳川の将官たちは看た。
それに、三の丸外の横曲輪を苦もなく突破した連鎖反応もあって、徳川軍はまっしぐらに二の丸へ直進した。
というわけで、徳川軍が二の丸まで兵を進めます。
その二の丸、どうなっているかというと、
二の丸の壕には、いくらか水が入っている。
それも、人が入って胸が出る程度のものなのだ。
今は水はありませんが、当時はあったという前提で。
二の丸・大手口の〔はね橋〕は、むろん、捲きあげられていた。
二の丸の石垣には塗塀がめぐらされてい、大手口には櫓がたち、これらのものを、雑木の枝がおおいつくしている。
ということで、徳川軍が二の丸を攻め始めます。
徳川軍は、鉄砲を撃ちまくり、城内からの弾丸や矢が途絶えたのを見るや、
「それっ!」
荒波が厳頭へ打ち寄せるように押し詰めて行った。
兵たちが壕の中へ飛び込み、押しわたって石垣へ取りつく。
いざ、戦ってみると、当初の、敵の先手組の奇襲は凄烈そのものであったが、ちからつきたとみえて退却してのちは、こちらの一方的な突進によって、敵の本城へ押し込むことができた。
もともと、徳川軍は、上田攻めを軽く看ていたこともあり、実際に戦ってみて、
(やはり、この程度のもの・・・・・・)
と、おもったのであろう。
ともかく、敵の本城を、いまやまさに、打ち破ろうとしているのであった。
徳川軍が、石垣の石も見えぬほどに這いのぼりつつある。
ここに「石垣の石も見えぬほど」人が群がっていたとか、ちょっと気持ち悪い。
「真田の命運も、もはや、これまで」
と、だれの目にもそう映ったのだが・・・・・・。
異変は、このとき、突如として起こった。
塀が崩れ始めたのだ。
石垣の上の塗塀が、めりめりと軋みはじめ、かたむきかけた。
ここらへんは、想像力をフルに働かせなくてはいけないのですが、この石垣の上に塀があって、それがめりめりと剥がれた、ということですね。
「ああっ・・・・・・」
「何じゃ、あれは・・・・・・?」一部の徳川の将兵がこれに気づいたときは、すでに遅かった。
一部の塀ではない。
石垣の上の、大半の塀が見る見るうちにかたむき、その上をおおいつくしていた雑木の枝が、いっせいに、石垣をのぼりつつある徳川軍の頭上へ落ちかかった。
いや、木の枝ならば、何でもない。
木立かとおもわれるほどに、こんもりと塗塀の上をおおっていた雑木の枝や葉に隠されていたのは、一抱えもあるほどの樹木であった。枝も葉も残したままに近くの山々から伐採してきたのを、横ざまに塀の上に吊り掛けておき、これをいっせいに落としたのである。
樹木のみか、石塊までも仕掛けてあった。
石垣を埋めつくしてのぼりつつあった徳川軍は、落下する樹木と石に打ち叩かれ、絶叫、悲鳴をあげて壕へ落ちこむ。
水堀にゴロゴロと大量の人が落ちていったのでしょう。
なかなか壮絶。
驚き騒ぐ徳川軍へ、弾丸と矢が激しく襲いかかった。
壕の水へ落ちた将兵は、
「なすところもなく・・・・・・」
弾丸と矢を受けて倒れる。
逃げようにも逃げられなかった。
今度は壕の中が味方で埋まり、押し合い、へし合い、もがきぬいている頭上から弾丸や矢が撃ちこまれるのだから、たまったものではない。
確かに「たまったものではない」なのですが、ただ、改めて考えると、徳川軍は一万人もいるわけです。
よって、塀が剥がれようが、鉄砲やら矢が撃ち込まれようとも、数にものを言わせてどうにかしてしまえば良いわけです。
ましてや、塀が剥がれたということは、あとは、石垣さえ登りきれば城内に入れてしまうのです。
むしろチャンス。
ところが、そうはならなかった。
真田方の反撃は、これで終わったのではない。つぎの瞬間には、三の丸内の横曲輪が炎をふきあげはじめたものである。
真田方が、われから横曲輪へ火を放ったのだ。
さっきの戦いで「横曲輪に逃げ込んだ」人たちによるものですね。
北西の風に煽られた黒煙と炎が、そのまま、三の丸を埋めつくしている徳川軍へ襲いかかった。
「ひ、引けい、引けい!」
引くよりほかに、道はないではないか。
徳川軍が、三の丸から引き上げはじめた。
壕の中の将兵を救出する間もなかった。
〔はね橋〕が下りてきたのは、このときである。
同時に、颯と二の丸の城門が開かれた。
「それ、突き入れよ!」
真田安房守昌幸が、大声に下知をあたえるや、
「応!」
こたえて、樋口角兵衛が五名の牢人を従え、真っ先に〔はね橋〕を駆けわたった。
源二郎幸村も〔はね橋〕をわたり切った。
安房守昌幸も槍を振り翳し、みずから飛び出して来た。
(しまった・・・・・・深入りをしすぎた・・・・・・)
これでは、十の兵力が二か三に減ってしまったのと同じである。
なんとしても城外へ引き、ひろい場所で、少数の敵と戦わねばならぬ。
ようやく・・・・・・。
徳川軍が、三の丸の外へ引き退くと、今度は三の丸外の横曲輪から、新手の二百余が繰り出して来て襲いかかる。
この「三の丸外の横曲輪」がどこだったのかが分からないのですが、まあ、三の丸の外のどこかにあったのでしょう。
またしても、
「引け、引けい!」
であった。
時刻は、昼に近くなっていたろう。
黒雲の層は、いよいよ厚く空をおおっている。
上田城の大手口から、攻め込んで来た道を、徳川軍は引き退いて行く。
城下を出外れた、ひろい場所で、今度は何としても勝たねばならぬ。
街路を走りぬけ、隊伍も別れて、徳川軍が撤退しつつあるとき、城下町の諸方から、突然、火の手があがった。
なお、この「城下町の諸方から、突然、火の手があがった」ところ、現在はこんな感じ。商店街です。
むろん、徳川方が放火したのではない。
真田の草の者が、掘り穴を伝わって城下へ入りこみ、火を放ったのである。
「草の者」というのは、いわゆる忍者のことです。
その「草の物」があたりに火をつけた、ということです。
ただ・・・掘り穴ねえ。
実際にそんなものはあったかは不明。やや眉唾。
いずれにせよ、
これは徳川軍の敗退を決定的なものにしたといってよい。
油でもつかったものか、火は、たちまちに燃えひろがっていく。
徳川軍が、まさに、
「算を乱す・・・・・・」
態となったのは、是非もなかった。
黒煙が渦巻く民家や屋敷の屋根の上へ、どこからともなくあらわれた軽武装の男たちが、下の道へ逃げる徳川軍へ、矢を射かけた。
たまらん!となった徳川軍は、このカオスを抜け切り、本格的に撤退を始めます。
が、しかし、
真田勢の迫撃も熄まないのである。
向井佐平次は長槍をつかみ、源二郎幸村の馬側に引きそっていた。
鳥居元忠の撤退路は、まだしも、逃げ足を速めることができたわけだが、常田口や染屋口から引き退こうとして城下町へもどった徳川軍は、さんざんな目に合わされた。
ケッチョンケチョンにやられた徳川軍に対して、真田軍、最後のトラップを発動させます。そこらへんを次回説明したいと思います。
(続く)