真田太平記をなぞる

なぞりながら解説

第二次上田合戦までの話(3):徳川秀忠、西上

前回までの3行サマリー

 

 

さて、第二次上田合戦の話の前に、まずは徳川家の動きを確認しておきましょう。

 翌七月二十六日の朝。

福島正則が小山を発し、清洲へ急行した。

正則を前後して、黒田長政池田輝政藤堂高虎山内一豊浅野幸長など二十将が、昼ごろから午後にかけて陣を引きはらい、西上の途についた。

これが、東軍の先鋒部隊ということになる。

ところで、会津上杉景勝についてだが、家康は熟考した結果、次男の結城秀康を対象にして残留せしめ、上杉の押さえとした。

これが約二万である。

そして家康は、第二軍の徳川秀忠へ、三万八千の軍団をあたえ、後見として本多佐渡守正信をつけ、中山道から木曽路を経て美濃の国へ進め、わが本軍と合流せしめることにした。 

 

ざっくりですが、大体こんな感じです。

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なお、隊を分けた理由ですが、一つの大軍で向かったとして、途中で何か(道が塞がってたとか襲われたとか)あった場合に、計七万の大軍が関ヶ原に到着できなくなるリスクがあるためです。

 

さて、中山道経路を任された秀忠ですが、一つ問題がありました。中山道を通るとなると、

当然、その途中に、真田父子の上田城が立ちはだかっている。

のです。

 

ということで、宿敵真田家に精通している真田信幸を帯同させることにします。

上州・沼田城 に待機していた真田伊豆守信幸の許へ、宇都宮に滞陣中の徳川秀忠から書面が届いた。

態々(わざわざ)啓せしめ候。仍て(よって)明二十四日に此地を罷り(まかり)立ち、小県(上田)へ相おもむき候の条、其分御心得候て、彼の表へ御出張あるべく候。

なお、大久保相模守、本多佐渡守申すべく候。恐々謹言。

八月二十三日

秀忠

 

これを受け、

真田信幸は、約八百の部隊を率いて、徳川秀忠の第二軍に参加するつもりであった。 

 

さらに、信幸は、参加にあたりこう考えます。

この戦闘は長引いてはならぬのだ。短時間のうちに、真田父子を降伏させるか、または城を攻め落としてしまわねばならない。

それでないと第二軍は、これより西上して西軍と決戦する徳川家康の本陣に合流することができない。

約四万の第二軍が決戦場へあらわれなかったときの徳川本軍は、相当の苦戦をまぬがれない。

 

このクダリを少しだけ補足しておきます。

徳川にとって、「戦に勝つこと」は何よりも大事。ただ、その「勝ち方」も同じぐらい重要だったのです。

これは「恩賞」に大きく関係します。

 

まず、家康と秀忠が共に予定通り戦場に着いたとします。そうすると、徳川家が東軍の圧倒的兵力を占めながら戦うことになります。そうなると「一番活躍したの、俺ら徳川家だから恩賞(=領地)を一番もらえるのも徳川家だよね?」と言える。

 

ところが、仮に家康と秀忠のどちらかが間に合わないとします。そうすると、他大名たちに動いてもらう必要が出てきます。つまり、恩賞を分配する段階で他大名たちにも領地を分ける必要が出てくるため、徳川の取り分は少なくなるし、徳川の独裁政権も築くことが出来なくなる。

 

なので、家康と秀忠、共に、予定通り確実に現地に到着していないと非常にマズイのです。

 

そういうコトのヤバさを理解しながら、信幸は八百の軍勢を引き連れて秀忠軍に合流します。

 

さて、

徳川秀忠の第二軍は、上州・松井田へ到着している。

すでに沼田から松井田へ到着していた真田伊豆守信幸が、これを迎えた。

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秀忠は、挨拶にあらわれた真田信幸を引見し、

「伊豆守には、さだめし、苦労のことであろうな」

と、いった。

皮肉ではない。

父と弟を敵に回し、戦わねばならぬ信幸の胸の内を察してのものであったろう。

信幸は、

「格別の事にてはござりませぬ」

つとめて冷静に、こたえた。

・・・親兄弟と戦うんだよ、格別のことだよ。

 

そんな中、軍議がひらかれます。議題は、当然、「上田城をどう攻略するか」でした。

この中で、

第二軍の秀忠を補佐させるため、父の家康がつけてよこした老臣・本多正信は、

「まず、上田へ使者をさしむけ、真田安房守へ、城の明け渡しをすすめてみるがよいかと存ずる」

といい出た。

かつての上田攻めで、徳川軍が真田父子に打ち破られた苦い経験を、本多正信は忘れていない。

勝って負けるとはおもわぬが、さりとて、七日や十日で上田城を、

(攻め落とせるものではない・・・)

ことを、本多正信はわきまえている。

徳川家康は、正信を第二軍へさしむけるにあたり、

「かまえて、遅参いたさぬよう」

と、念を入れた。

四万に近い第二軍が決戦に遅れてしまっては、どうにもならぬ。

だからといって、第二軍が中山道を制圧しておかなくては、家康も安心して決戦場へのぞむことができない。

たとえば・・・。

上田城を放置しておけば、真田昌幸上杉景勝と連携をたもちつつ、大形にいうなら、

「江戸を奇襲しかねぬ・・・」

のである。

 

前述の通り、関ヶ原に遅れるのはマズイから、真田は無視して先を急ぎたい。でも、放置しておくのも、なんだか怖い。「だって、あいつら、真田だぜ?きっとなんかやってくるぜ・・・」という一抹の不安が拭いきれない。

 

そこで、戦うでもなく、無視するでもなく、「城の明け渡し交渉」という選択をするわけです。

本多正信は、徳川秀忠に進言し、上田城へおもむく軍使を二人えらんだ。

一人は、本多美濃守忠政である。

そして、いま一人は、ほかならぬ真田信幸であった。

 

信幸からしてみれば、大役を任されたわけですから、本来は喜ぶべきところ。

ただ、

(これは、父や弟と戦うよりも、むずかしい・・・)

ことだと言わねばならぬ。

いま、ここで、素直に開城するほどなら、なんで父や弟が徳川にそむいて上田へ帰ったりするものか・・・。

なんてことを考えながら、軍使として、上田へと向かうことになります。

 

次回は、そこらへんの交渉がどうなったかについて話をしたいと思います。

 

(続く)

 

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