第一次上田合戦(4):最後のトラップ発動
前回の話の3行サマリー:
- 徳川軍が上田城を攻撃
- 「塀がぺりぺり剥がれたんだってね」「かっこいい(囲い)」
- 「囲いから火が起きたんだってね」「へぇ(塀)」
さて、真田家のあの手この手により、這う這うの体で東へと撤退する徳川軍。
ここで最後のトラップが発動します。
これより先、源三郎伸幸は三百余をひきい、三の丸外の横曲輪の北口から出て、東太郎山の山裾を東へ向い、疾駆している。
この一隊が、神川のほとりへあらわれると、矢沢の砦から、ここまで出て来ていた矢沢但馬守頼康が、五百の部隊をひきいて駆け寄ってきた。
神川をへだてて、源三郎と矢沢頼康の両部隊が、南下しはじめた。
と、このとき・・・・・・。
東太郎山の中腹から、狼煙があがった。
黒雲におおわれた空に、狼煙の白いけむりが打ちあげられたのは、堰止めておいた神川上流の水を、
「切って落とせ」
という合図であった。
これが、最後のトラップです。
その頃の徳川軍と言うと、相変わらず混乱しながら東へ逃げています。
必死に城下を逃げぬいた徳川軍は、もはや、ふみとどまって真田勢を迎え撃つ気力をうしなっていた。
というよりも、これ以上、戦いつづけては、なおも痛烈な襲撃を受けるようなおもいがして、
「ともあれ、千曲川をわたれ」
と、大久保忠世は、使い番を八方へ飛ばした。
千曲川沿いの道を東へ逃げる鳥居部隊も、ついに、源二郎幸村の一隊に追いつかれた。
私の想像も入りますが、多分、こんな感じだったと思われます。
一方では、大久保忠世の本体をふくむ徳川軍が、これも反撃を繰り返しながら、東へ、神川のほうへ向かって退却しつつあった。
ところが、神川の岸辺へもどって見ると、堰を切られた奔流が渦巻き、川の様相がまったく変わっているではないか。
これでもかというぐらいの八方塞がり。
さて、一瞬話は逸れます。
「神川の岸辺へもどって見ると、堰を切られた奔流が渦巻き、川の様相がまったく変わっているではないか」の部分についてです。
神川、そんなに小さな川ではないんです。人為的にそんな状況を作り出すのであれば、相当な量の水が必要ですし、ここはかなり眉唾。江戸時代の講談で盛られた話じゃないかと推測しています。
ただ、この戦闘があった時期は9月ぐらいなので、大雨が降って川の水かさが増えて、簡単には渡れなかった、というのはあり得る話です。
話を戻します。
東は氾濫した神川に遮られ、北と西からは真田軍、南は大河である千曲川。
徳川軍、完全に追い詰められます。
あとは真田が徳川を完膚無きまで打ちのめすだけ!という場面で、真田昌幸はこういう判断をします。
「これでよし」
安房守昌幸は、敗走する徳川軍に対し、
「これまでじゃ。追うな」
と、いった。
木村土佐・禰津長右衛門などが、
「いま一息でござる。どこまでも追わせられるがようござる」
進言をすると、昌幸はかぶりを振って、
「図には乗らぬものよ」
「なれど、せっかくに、ここまで浜松勢を・・・・・・・」
「申すな。日暮れも近い。それに、味方は小勢じゃ。有体の姿を敵に見きわめられてはなるまい。また、味方は朝からの戦で疲れ切っていよう」
断固として、引きあげを命じたのである。
そうなんです。
なんだかんだ言って、真田は結局二千しか兵がいないんです。
下手に追い打ちをかけて、兵力差で巻き返され、兵力二千を削られるよりも、「まだ何かあるかも・・・」と疑心暗鬼にさせ、攻めにくくさせる方が安全なのです。
「勝つ」ではなく「負けない」という孫子的なアプローチですかね。
これで、第一次上田合戦は幕を閉じます。
その成果はどんなものだったのか。
上田城へ引きあげて来てみると、味方の損傷は意外に少なかった。
ある戦記には、
「合わせて四十余名」
などとあるが、まさか、それほどに少なくはなかったろう。
真田方の、死傷者の数は、よくわかっていないが、上田城の内外に遺棄された徳川軍の死体は千に近かった。
これに、朝からの死傷者をふくめると、二千余の戦死者があったのではないか・・・・・・。
この後、徳川軍は、一番最初に布陣した八重原まで撤退します。
「え?そんなに撤退する?」ぐらい撤退していますね。
八重原の台地へ後退をした徳川軍は、
「こうなれば、せめて、丸子城を攻め落とそう。それでなくては・・・・・・」
それでなくては、主人の徳川家康に、
「顔向けもならぬ」
というわけだ。
何だかいきなり新しい城の名前が出てきますが、ここです。
だが、すかさず、真田勢が出撃して来た。
大勝利の休息をとった真田勢の闘志は燃えさかっている。
これに背後をおびやかされ、ついに、徳川軍は丸子城もあきらめてしまうのである。
この後も暫く戦いが続き、
徳川家康は、味方の敗北を聞き、
「童が戦あそびをしておるのか・・・・・・」
こうなると、戦闘のスケールは、ひとまわり大きくなった。
上杉の背後には、羽柴秀吉が在る。
となれば、ふたたび、家康は秀吉と戦うことになりかねない。
いずれにせよ、信州・上田にこだわっていては、徳川家康の不利になることが明白となった。
家康自身、大軍をひきて、わざわざ上田まで出陣するとなれば、たとえ上田を落とせても、その隙に、遠い自分の領国がどうなってしまうか、知れたものではないのだ。
家康は、浜松をはなれることができぬ。
また、これ以上の兵力を上田へさしむけるわけにもまいらぬ。
「見のがしてはおくまい」
なのである。
賢明な徳川家康は激怒と意地立てを、みずから克服し、いまは、いさぎよく、上田攻略をあきらめることにしたのであった。
こうして、ついに徳川軍は、八重原の台地を引きはらい、浜松へ引きあげて行ったのである。
というわけで、徳川軍が完全撤退します。
それにしても、二千で一万の兵を追い払うってすごいことですよね。
上田市出身でもない私が「すごい」と思うぐらいなので、上田市出身の人はさぞかし誇らしいのだろうな、と思っていたら、本当にそうでした。
以下、上田高等学校の校歌(2番)の歌詞(校門近くの立て看板に書いてありました)。
関(くわん)八州の精鋭をここに挫(くじ)きし英雄の
義心(こころ)のあとは今もなほ松尾が丘の花と咲く
以上、第一次上田合戦の話でした。
さて、ここからは、関ヶ原に向けて時代が一気に動き始めます。
次回以降はそこらへんを説明していきたいと思います。
(続く)