第一次上田合戦(1):神川でのゲリラ戦
さて、前回からの続きです。ここまでの話を3行で要約すると:
- 徳川が一万の大軍を送り込んできた
- 真田は二千しか集められない
- ヤバイ
というわけで、第一次上田合戦が開始します。
さて、まずは、「2,000人(真田)と10,000(徳川)って実際、どのぐらい規模なの?」ということを確認してみましょう。
実際の縮尺で真田軍と徳川軍を地図に落とし込んでみました。
・・・さっぱり分からない。
ということで、わかりやすくするために、試しに渋谷駅近辺に真田軍と徳川軍を配置してみます。
真田軍は、スクランブル交差点から109ぐらいまで。
あれ、なんだろ?そんなに多くない気がする。いや、多いけれども、何なら「渋谷のハロウィンがどうのこうの」と毎年ニュースでやっていますが、そっちの方がはるかに人が多いということか。
(調べてみたら、ハロウィン時期の渋谷は一日で100万人集まるそうです、それはそれで何かがおかしいが)。
いずれにせよ、こういう規模感で戦いが始まった、ということでご理解頂ければ。
ここからの話は、池波正太郎の真田太平記を引用しながら説明していきます。
この年、天正十三年(西暦一五八五年)閏八月一日は、現代の九月二十四日にあたる。
すでに、一万余の徳川群は、千曲川南崖の台地、八重原(長野県北佐久群御牧村の内)に本陣を構えていた。
距離的には15km、歩くと2時間44分です。
八月二日の夜が明けたとき、徳川軍の先方は、千曲川を北へわたっていた。
このとき、徳川軍の先鋒・諏訪頼忠の部隊は、神川の東岸へ達している。
この地点から上田城までは、一里そこそこである。
一里は約7km。徒歩なら57分。
ここで 徳川軍が「神川」という川を渡り始めます。
位置的にはこんな感じです。
これだと分かりづらいので、拡大版も載せておきます。
さあ、この川を渡ってしまえば、上田城はもう目前ということで、
「それっ!」
諏訪部隊が神川をわたりはじめた。
神川はこんな感じです。
川の流れは多少早いぐらいなので、気をつけて渡れば問題なさそうです。
そんな神川を徳川軍1万人が少しずつ渡り始めたそのとき、
突如、神川の上流の方から、人馬の響みがわき起こった。
これは対岸からではなく、神川の東岸の、諏訪部隊が川をわたるために集結をしている側面の雑木林の中から起こったものである。
「あっ・・・・・・・」
まさに敵と看て、諏訪勢が態勢をととのえる間もなく、雑木林の中からあらわれた真田の鉄砲隊が、いっせいに火蓋を切った。
鬨の声をあげ、槍をつらね、真田の部隊が雑木林からあらわれ、猛然と、諏訪部隊へ突入してきた。
地図で表すとこんな感じですかね。
近くで見るとこんな感じです。
今はそうでもないですが、当時は雑木林がたくさんあったのでしょう。
そこに隠れていた真田のゲリラ部隊が、徳川軍の側面を突きます。
諏訪頼忠の部隊は、たちまちに突き崩され、神川の東岸を千曲川の方へ散り散りになって押し捲られた。
諏訪部隊のうしろから進んで来た柴田・岡部の両部隊が、諏訪勢を救援すべく川岸へ押しつめたとき、早くも、真田の奇襲部隊は神川の対岸へ引きあげているではないか。
その速さと、一糸みだれぬ用兵には、諏訪頼忠が茫然となった。
「さわぐな!」
と、鳥居元忠が、馬上に背をのばし、
「諏訪勢にかまわず、一時も早く、川を押しわたれ」
下知をしたのは、さすがである。
落ち着きを取り戻した徳川軍は、再び神川を渡り始めます。
(続く)