(再現動画の格納場所)
第二次上田合戦(3):秀忠のその後、昌幸・幸村のその後
前回までの3行サマリー。
- 真田家の偵察隊につられて、徳川軍が上田城下まで来る
- 真田軍が一気に打ち出て、徳川軍が退却する
- 以上、第二次上田合戦終了
さて、前回までのおさらいです。
最終的にはこんな感じで徳川軍を撃退しました。
ただ、徳川軍、一時的に撤退したのは良いものの、38,000人もいるのです。数で押せば、次こそは真田家に勝てるかもしれないのです。
そういうこともあり、
徳川勢の中には、さすがに、たまりかねて突撃して来る部隊もあった
のですが、
徳川秀忠は、急ぎ、
「戦闘中止」
の発令を発し、総軍を本陣近くにまとめ、陣容を立て直した。
繰り返しになりますが、秀忠のゴールは、真田を抑えておきながら、自身は予定通り家康の本隊に合流すること。
それなのに、
追撃した徳川勢は、おびただしい死傷者を出してしまった。
何といっても兵力がちがうことだから、上田城を包囲しているかぎりは、真田父子も手が出せぬわけなのだ。
それなのに、巧妙なさそいに乗って、無用の打撃を受けたのである。
(かような恥をどのように内府公へ申しあぐればよいのか・・・)
さすがの謀将も、途方にくれたといってよい。
第二軍が上田を引き払い、決戦場へ向かおうとする間際に、このような失態を演じてしまった。しかも十五年前のときと同様、真田父子のさそいに乗せられてのことなのだ。
サラリーマンをやってる身としては、この気持ちは分かります。仮に自分がこの失態を役員報告することになったら、恐らく、一通り悶絶し、焦り、その後、どうやって状況を取り繕うかを考え始めると思います。
そこで、本多正信が採った行動とは、
無謀の追撃と突進をおこなった牧野忠成、大久保忠隣等に対し、本陣からの軍令を待たずして、
「功を焦るとは何事ぞ」
と、きびしい処分をあたえた。
このとき、杉浦久勝と贄掃部が切腹を命じられたのである。
切腹・・・。
仕事で失敗したりすると「命とられるわけじゃないしさ!」みたいな励ましを受けることがありますが、これって、絶対に戦国時代では使われていなかった励ましであることだけは断言できます。
さて、本多正信がこんなことをしている一方で、伊勢山城に陣取っていた真田信幸は、こんなことを思っていたようです。
「ちかごろの男どもは、戦の仕様も忘れたと見える」
苦笑まじりに、洩らしたという。
それに引きかえ、わが父と弟の、あまりにも鮮やかな駆け引きには、
(さすがじゃ)
と、おもわざるを得ない。
話を戻しましょう。
再三になりますが、秀忠のゴールは、家康本隊に遅滞なく合流することです。もう、こんな戦いに付き合っている余裕はありません。
そこで、
徳川秀忠は、七日の朝に、またも本陣を小諸へ戻した。
上田城外の染屋の台地から、本陣を小諸へもどしたのは、老臣・本多佐渡守正信の強硬な進言によるものであった。
こちらは四万に近い大軍であるし、上田籠城の真田勢は三千数百にすぎぬ。
戦って負けるはずもないが、三日や五日で、城が落ちるとも考えられぬ。
それに、秀忠本陣が上田城外に在れば、
(また、どのような奇襲を仕かけてくるやも知れぬ)
このことであった。
もう、相当に疑心暗鬼だったんでしょうね。
第一次上田合戦と同じ失敗を繰り返しているし、それだけでも大目玉案件なのに、これ以上失敗を重ねてしまったら、もう、本当に取り返しがつかなくなります。
さらに、このタイミングで家康から「俺もそろそろ出発するから、木曽路経由の美濃合流でよろしく」という便りが届きます。
いよいよ真田家なんか放っておき、道中を急ぐ必要が出てきました。
さて、秀忠が抱えた次なる問題は、小諸からどうやって木曽路まで行くか、です。
信州・小諸を発した徳川秀忠の第二軍が木曽路へ出るには、丸子から長久保を経て、和田峠を越え、諏訪から木曽路へ入るのが順路であった。
ところが、本多正信は、
「なればこそ、危うござる」
と、いい出した。
和田峠越えの沿道にあたる長久保・武石などには、真田昌幸の砦があり、おそらく兵も入っていよう。
これと呼応して、上田城の真田父子が、
「何をたくらむや、知れたものではおざらぬ」
と、いうのである。
榊原康政は、
「何を申されることか。真田勢が来らば迎え撃つまででござる。何を恐れなさる」
厳しく反対をした。
そう、その通りなのです。真田は所詮、3,800の小勢。攻めてきたら多少の兵でこれを食い止め、秀忠の本軍は最短ルートで進めば良いのです。
しかし、正信は、もう、これ以上失敗を重ねたくない。そういうこともあり、
和田峠越えをやめ、小諸から左へ迂回し、布引から八幡を経て、大門峠越えに木曽路へ出たほうが、
「無事でおざろう」
と、主張する。
結局、徳川秀忠は、この、父がさしむけた後見役の意見を採用することにした。
榊原康政は、
「勝手になされ!」
一千の部隊をひきい、堂々と和田峠を越えて諏訪に到着した。
ところが、秀忠の第二軍は、なかなかに到着せぬ。
大門峠の嶮岨な山道・崖道の行軍に難渋し、おもいのほかに時間がかかってしまったのだ。
谷へ落ちた兵士もいるし、秀忠も木の枝に兜を引きかけられ、馬から落ちたりした。
ようやくに、秀忠軍が諏訪へ到着したのは、九月十三日であった。
そして、
同じく、九月十三日。
遅刻がほぼ確定しましたね。
一方、
上田城では・・・。
木曾路へ向かった徳川秀忠の第二軍の様子が、つぎつぎに草の者から届けられていた。
「草の者」というのは、いわゆる忍者のことです。
左衛門佐幸村が、昌幸に、
「父上。徳川勢は、どうやら大門越えを致すようでござる」
「何故じゃ?」
昌幸は、不審にたえぬ面持ち出会った。
「何を持って、あのような嶮路に大軍をすすめるのじゃ?」
「さて・・・それがしには、わかりかねます」
「徳川の者どもは、奇妙なことをするものじゃな」
「われらが討って出るのを、恐れているのやも知れませぬ」
「なれど、左衛門佐。われらが討って出ようとおもえば、かえって大門越えのほうが危ういぞよ。こなたは三十名も出して、おもしろいように徳川勢を谷底へ転げ落として見しょう。どうじゃ、やってみるかの」
「それはかまいませぬが・・・いまとなっては同じことでござる」
「ふむ。われらは為すべきことを為したゆえ、な」
「武蔵守(秀忠)がひきいる大軍は、到底、決戦の当日に間に合いますまい」
「さようにおもうか。わしはな、いま少し、上田へ引きつけておきたかった。まだまだ、こころもとない気もいたすが・・・」
「いや、父上・・・」
いいさして、真田幸村は押し黙り、かなり長い時間瞑目していたが、ややあって、
「間にあいますまい。大丈夫でござる」
きっぱりと、いった。
そして、秀忠は実際に家康本隊に合流することはかなわなかったのです。
「もしも、うまく間に合わなんだときは、われらのみで四万の徳川勢を引き受けたことになるわえ」
「いかさま」
「これなれば、いかに治部(三成)とても、負くることはあるまい」
「宇喜多、島津、小西など、まずは頼むに足りましょう」
「ふむ、ふむ・・・」
つまり、これで、昌幸たちはこれで西軍の勝ちを確信したのです。
そりゃそうだ。
関ヶ原においては:
- 東軍:80,000
- 西軍:100,000
と言われています。
この兵力については諸説ありますが、最早、そんなことはどうでも良いのです。このブログにおいて大事なのは、ザックリ上記のような戦力差があった中で、真田家の足止めもあり、秀忠軍40,000が関ヶ原に間に合わなかった、ということなのです。
そして、ここまでお膳立てすれば、西軍もさすがに勝てるだろう、と確信したのです。
ところが、実際は違った。
関ヶ原にて東軍と対峙した西軍は、わずか数時間で大敗を喫するのです。
「これは、どうしたことじゃ?」
呆れ果て、また、不審にたえぬ面持ちで、
「上方勢は、小児の戦遊びをしていたのか・・・」
と、いったそうな。
約十倍もの徳川第二軍を上田城へ引きつけ、これが決戦場へ参加することを阻んでやったのだ。
三成はさておき、小西行長も宇喜多秀家もいる。島津義弘も大谷吉継もいた。
そうした人びとが、
「何故、勝とうとしなかったのか・・・?」
さらに、後のことだが、当日の戦況を知ったときの昌幸と幸村の失望は、
「あまりに愚かしく、なさけなく、正気の沙汰ともおもえぬ・・・」
ほどのものといってよかった。
幸村は、
「これは父上、私がたとえ百の兵を引きつれてでも、上方へ残っているべきでありました」
いかにも残念そうにいった。
この真田幸村の言葉が、ただの強がりや誇張ではないことは、十五年後に、幸村自身が立証してみせることになる。
この後、真田家は結果的に、西軍の敗将の一人となり、色々なイベントを経て、和歌山県の九度山に幽閉されます。そして、昌幸はこの地で人生の幕引きをすることになります。
あれだけ鮮やかに徳川軍をてんてこ舞いにさせた武将としては、何とも寂しい最後でした。
ただ、二度に渡り、徳川の大軍を追い払った功績は世間にも認められていました。
そして、その功績は、昌幸が上田を去り、九度山で生涯を終えた後も上田の人たちの誇りとして語り継がれていたのです。
以下、過去にも紹介したことがありますが、上田高等学校の校歌(2番)の歌詞です。
関(くわん)八州の精鋭をここに挫(くじ)きし英雄の
義心(こころ)のあとは今もなほ松尾が丘の花と咲く
この歌詞、徳川軍を退けたことを誇らしく表現をしているのと同時に、どこか、昌幸・幸村の無念を汲んだ、物寂しげな余韻が含まれています。こう、なんというかグッとくるものがあります。
ちなみに、会社の後輩に上田高等学校出身者がいたので、「校歌の2番がさ・・・」と熱く語ってみたところ、「そんな歌詞でしたっけ?」と言われ、ガックリしました。
世の中、そんなもんです。
さて、第二次上田合戦の後は、関ヶ原、九度山幽閉、大阪冬の陣・夏の陣・・・と続いていきます。
果てしなく長い話なので、このブログで続きを書くかどうか迷っていますが、気が向いたら書いてみたいと思います(多分、書かない)。
期待せずお待ちください。
第二次上田合戦(2):割と地味な戦い
前回までの3行サマリー。
というわけで、改めて布陣を確認しましょう。想像ですが、大体こんな感じです。
伊勢山も抑えたので、あとは上田城だけ気にしておけば良い状態です。
ただ、改めてですが、徳川秀忠のゴールは、上田城を陥落することではありません。
真田家が余計なことをしないように牽制しつつ、秀忠が予定通り徳川家康の本陣に合流することがゴールなのです。こんなところでチンタラ城攻めなんかしてる場合じゃありません。
ということもあり、
徳川秀忠は、後見の本多正信に計り、伊勢山城へ精鋭部隊を残し、上田城を押さえさせ、みずからは第二軍をひきい、父・家康の本陣へ一日も早く合流することにした。
徳川秀忠は、九月七日の朝に上田攻めの本陣を引きはらい、木曾路から美濃へ出て、父・家康の本陣と合流することにした。
以下が「予定」していたルート。
秀忠は、上田の本陣を発つことを家康へ知らせるため、六日の早朝に急使を出発せしめた。
その急使が出て行って間もなくのことだ。
秀忠本陣がある染屋の台地の西方の、依田肥前守の陣地の近くへ、朝霧にまぎれて、真田の偵察隊があらわれたのである。
この、依田肥前守がどこに配置されていたのか、真田太平記では説明がなく、さっぱり分からないのですが、多分、こういう感じです。異論は認めます(というか、誰か教えて)。
これを発見した依田部隊が、
「それ!」
すぐさま、発砲をした。
すると、真田方も負けじと鉄砲を撃ちかけてくるではないか。
単なる偵察隊ともおもえぬ。
依田肥前守は、
「小癪な。追い散らしてしまえ!」
猛然と、打って出た。
すると・・・。
真田の一隊は、あわてふためき、逃走をはじめた。
ここからは、依田部隊と真田の偵察隊の小競り合いが続きます。
そのうち、徳川の武将たちも加わり始め、劣勢となった真田軍が退却を始めます。
これを見た大久保忠隣(相模・小田原城主)、酒井家次(下総・碓井城主)など、徳川家生えぬきの武将たちも、
「いまこそ!」
とばかり、追撃に加わった。
押し捲くり、突き進む猛烈な攻撃に、真田勢も、
「たまりかねた・・・」
かたちとなって、上田城・大手口の街路の近くまで引き退りはじめた。
ちょうど、そのときである。
秀忠本陣の北方の低い山蔭から、突如、真田の鉄砲隊があらわれ、本陣へ一斉射撃をおこなった。
上図も完全に想像です。
最早、徳川秀忠がどこに布陣していたのかも明確に分からないので、真田の鉄砲隊がどこに隠れていたのかも分かりませんし、「山蔭ってどこだよ、ねーよ、そんなもん」と思いながら書いています。正確性に欠けると思いますが、そこらへんは大体の雰囲気で感じとってください。
さて、この銃声を聞いて、徳川の諸将は、本陣の救援に戻るべきか、このまま真田家を追撃するか、一瞬迷います。
一方で、
秀忠本陣から聞こえる銃声は、逃げる真田勢の耳へも入った。
それを合図にでもしたかのように、真田勢は、おどろくべき速さで上田城の大手門へ逃げた。
門の扉が八文字に開かれ、逃走する兵を収容しはじめた。
これを目の前に見ては、「追わぬわけにはまいらぬ・・・」ではないか。
「かまわぬ。攻めこめ!」
雪崩のように、徳川勢が押し進んだ。
大手門の扉は、まだ開いたままで、逃げ込む兵を迎え入れつつある。
大手門へ肉迫した徳川勢は、勝ち誇っていたというよりも、あまりにも円滑に城門前へ攻め寄せることができたので、おもわず、
「我を忘れた・・・」
かたちとなったのであろう。
十五年前の上田攻めの、城頭の激戦では、押し詰めた徳川勢が石垣を這いのぼろうとすると、その頭上からおびただしい石塊と樹木が落下してきて、将兵を打ち叩いた。
だが、いまは大手門前の「はね橋」も捲きあげられていない。
その橋を、真田の兵士が逃げ渡りつつあるのだ。
「この機を逃してはならぬ!」
牧野部隊の旗奉行・贄掃部と、大久保部隊の、これも旗奉行をつとめる杉浦久勝が、
「攻め込め!」
「後るるな!」
真っ先に、押し詰めて行った。
その瞬間であった。
大手門の櫓のあたりから、突如、狼煙が打ち上げられた。
贄も杉浦も、はっとおもったろう。
これまでの真田方の奇襲作戦を想えば、この狼煙を無視することはできない。
そもそも、いまこのとき、大手門で狼煙を打ちあげる意味がわからぬ。
そのとき、逃げ走っていた、真田勢が、狼煙を合図に颯と散開した。
〔はね橋〕の向こうに、大手門が口を開けている。
そこから、真田左衛門佐幸村が一隊をひきいてあらわれた。
同時に、城塁の上から鉄砲の一斉射撃が起こり、無数の矢が疾り出た。
〔はね橋〕へ、いま一歩というところまで押し寄せた徳川勢が、将棋倒しのかたちで撃ち倒された。
贄と杉浦が、
「しまった!」
「退け、退けい!」
叫んだときには、もう、遅かった。
〔はね橋〕を走りわたった馬上の真田幸村が槍を構え、手勢と共に徳川勢へ突入した。
この具足は、父・昌幸が十五年前の上田攻めの折に使用したもので、後に、幸村が、
「ぜひとも・・・」
と、父にねだって、もらい受けたものであった。
ここから、真田軍が一気に攻撃を仕掛けます。
突き捲り、叩き伏せ、鬼神のように荒れまくる真田幸村と共に、出撃した新手が縦横にはたらき、押し包むかとおもえば突入し、突入したかとおもうと散開する。
そのうちに、大手口の町屋の三方から火の手があがった。
これは、わざと残して置いた木材などへ、迂回して来た真田勢が火を放ったのである。
徳川の戦士を乗せた馬は、燃え上がる炎と煙に脅えて狂奔した。
浮き足立った徳川勢は、火煙をくぐり、必死に逃走しはじめた。
そこへ・・・。
今度は、秀忠本陣を襲った鉄砲隊が、これも迂回して引きあげて来て、
「撃て!」
射撃を開始した。
この鉄砲隊などは、二十余名ほどのものにすぎない。
それが、こうしたときには何倍もの鉄砲に感じられる。
さて、ここから真田軍が徳川軍をメッタメタにするのかと思いきや、
真田幸村は、徳川勢を大手口の町屋の彼方へ追い退けるや、
「引けい!」
敏速に兵をまとめ、城内へ引き戻った。
以上です。
ここまでが第二次上田合戦です。
なんか、あれですよね、第一次上田合戦に比べるとあっけないというか、派手さに欠けますよね。
ただ、真田家の目的は、鮮やかに勝つことではなく、秀忠を上田に足止めさせ、家康本陣と合流させないこと。そういう意味では、本来の目的はパーフェクトに果たせたわけです。
あっけなくて良いんです。
さて、真田家の役割としてはここまでです。
となると、気になるのは、その後の徳川秀忠軍の動きです。
次回はそこらへんを説明したいと思います。
(続く)
第二次上田合戦(1):38,000 vs 3,500
前回までの3行サマリー
というわけで、第二次上田合戦の開始です。
まず、徳川と真田の兵力差を確認しましょう。
徳川の38,000人に対して、
(三千五百ほどか・・・)
と、伊豆守信幸は診ている。
だそうです。
つまり、真田家は3,500で、兵力差10倍の徳川軍と対決することになったわけです。
ただ、例によって3,500とか38,000とか言われてもなかなかピンと来ません。
というわけで、上田城の周りに、実際の縮尺で徳川38,000と真田3,500を落とし込んでみました。
・・・うーん、これもピンと来ないなあ。
前回は渋谷駅付近にプロットしましたが、今度は新宿駅周りに落とし込んでみましょう。
真田軍は、小田急百貨店のワンフロアーが、ビッシリ人で埋まるぐらい。
徳川軍は、横が紀伊國屋から伊勢丹、縦が伊勢丹から髙島屋ぐらいまで。
うむ、かなりわかりやすい。
それにしても、小田急のワンフロアーで新宿駅東口に対抗しようとするとか、無謀だろ・・・。
続いて、それぞれの布陣について確認していきましょう。
真田太平記によると、徳川軍は「染屋台」に陣を敷いたとあります。
ただ、「染屋台」って結構エリアが広いんですよね。
過去記事:第一次上田合戦(2):しつこくゲリラ戦でも紹介した通り、下図の水色の線あたりは「自転車だと手押しじゃないと登れないぐらいの斜面」になっています。
そんな急斜面を、38,000もの大軍を率いて登るとは思えないので、多分、こんな感じで陣を敷いたのではないかと推測しています。
ちなみに、陣形がどうなっていたかは、真田太平記でもGoogle先生でも出てこないので、超適当な想像です。異論は認めます。
さて、対する真田家はどういう布陣を敷いたのか。
一方で、
真田左衛門佐幸村は、七百余の兵をひきい、伊勢山の城へ入っていた。
伊勢山の城というのは、つまり、砥石城の一部といってよい。
砥石城は、上田城の東北約一里のところにあり、二つの峰を中心に、いくつもの曲輪が設けられてい、北の峰に、かつての〔本丸〕があった。
伊勢山城は、南の峰の〔米山曲輪〕の東方の峰に築かれている。
例によって、真田太平記の説明がざっくりしているため「伊勢山の城」の正確な位置が分からないのですが、多分、ここらへんです。
ここに陣を配置すれば、徳川軍は後方を意識せざるを得ず、どうにも動きづらくなります。
というわけで、双方、このような陣形で第二次上田合戦が開始します。
その中で、まず、
徳川本陣から、部隊が動きはじめた。
伊勢山城の攻撃部隊である。
先鋒は、真田信幸・榊原康政の両部隊に本多忠政が加わっている。
徳川軍が、上田城ではなく伊勢山城を先に攻略しようとした理由は、単純に「後ろから攻められて混乱するのが嫌だから」だと思われます。
いよいよ、信幸が、弟の幸村と戦う日が来た。
伊勢山城の櫓の上から、左衛門佐幸村は兄の部隊が段丘を越えて、こなたへ進んで来るのを見ている。
「やはりのう・・・」
幸村は、仕方もなさそうに笑い出した。
「兄上が先陣か・・・さもあろう」
なお、伊勢山城(があったと思われる場所)には、現在、このような趣きのある落書きアートが飾られている櫓が建っています。
この落書きアートは、真田十勇士の誰かっぽいです。
(真田十勇士なんて江戸時代の講談の創作なのに)
この櫓に登り、南側を見ると、
こんな感じの景色が広がります。遠くまで見渡せるし、櫓を建てるならここしかないだろう、という立地です。
というわけで、こういう櫓から真田の旗印を掲げた信幸軍がやってくるのが見えたのでしょう。
さて、兄の旗印を見た幸村はどうしたのか。
兄の部隊が真っ先に進んで来るのを、しばらくは見まもっていた幸村が、突然に、
「上田へ引きあげよ」
と、命を下した。
「何とて、伊勢山を、戦わずしてお捨てなされます?」
家来たちが、咎めるように問い詰めてきた。
もっともである。
伊勢山城を捨てることは、外部から上田の本城を助成できぬことになるからだ。
本城の攻防戦がはじまれば、
「最も、たのみになる・・・」
遊撃部隊ということなのだ。
この伊勢山城の部隊がいるからこそ、徳川軍は攻めにくくなっているわけだし、何よりも、徳川軍が兵を割いてまで伊勢山城攻略をしようとしたぐらいの重要拠点なわけです。
それを「戦わずして放棄しろ」って、どゆこと?ということに当然なりますよね。
だが、左衛門佐幸村は、反対を唱える家来たちへ、こういった。
「兄上と戦するわけにもまいるまい」
「急げ」
幸村は敏速に兵をまとめ、尾根づたいに〔米山曲輪〕を抜け、東太郎山の山腹を引き上げていく。
ちなみに、この「東太郎山の山腹」というのは、別記事:(ついでのお話)砥石城と真田温泉についてでも紹介した通り、超ガチでハードな道です。これを通ったとか、本当に正気の沙汰とは思えません。
さて、「幸村はなぜ戦わずして陣を引いたのか」については色々な理由があると思います。
一つは、徳川方と戦うことによって、真田側の戦力を消耗したくなかった、という理由です。元々、徳川と真田の戦力差は圧倒的なわけですし、まともに戦っても勝てるわけがない。
また、徳川の戦力を(多少であったとしても)本陣から引き離し、上田城への攻撃を少しでも和らげようということも理由として挙げられるかもしれません。
ただ、一番の理由は、徳川家における信幸の面目を保つことだと思われます。
というのも、伊勢山城の無血開城の連絡を受け、
徳川秀忠は、大いによろこんだ。
「さすがに、伊豆守殿じゃ」
と、本多忠政も姉聟の信幸を称賛してやまない。
それまでは、「家名を残そうとして、親子兄弟が敵味方に別れたのであろう」
などと蔭口をしていた徳川の武将たちも、真田信幸を見直したようであった。
ただ、信幸はそもそも戦ってすらいないわけですし、この程度で面目躍如になったのかどうか・・・。
いずれにせよ、上田城攻略に向けた重要拠点であった伊勢山城は徳川軍の手中に入ったわけです。
その上で、
秀忠としては、真田信幸が伊勢山を奪い取ったので、上田本城の抵抗にも限度があると診た。
徳川秀忠は、後見の本多正信に計り、伊勢山城へ精鋭部隊を残し、上田城を押さえさせ、みずからは第二軍をひきい、父・家康の本軍へ一日も早く合流することにした。
そう、秀忠の本来の目的は、過去記事:第二次上田合戦の話(3):徳川秀忠、西上でも説明した通り、「適切なタイミングで家康と合流すること、くれぐれも遅参せぬよう」なのです。
よって、秀忠は「さすがにこの状況下で真田に負けることは無いだろう」という判断を下し、自分は家康と合流すべく先を急ぐことにしたわけです。
ただ、そうは問屋が卸しません。
真田家の目的は、「この戦に勝つ」ではなく、「徳川軍を関ヶ原で勝たせないようにする=秀忠と家康の合流阻止」だったのです。なので、意地でも秀忠軍をここで引き止める必要があります。
そこで、真田家が次なる仕掛けを発動させます。
次回はそこらへんを説明していきたいと思います。
(続く)
(ついでのお話)砥石城と真田温泉について
本編とはあまり関係が無いのですが、砥石城に行った話をしてみたいと思います。
まず、なぜ砥石城に登ろうと思ったのか。
当時、ここは物見台として使われていたはずです。
その物見台から物見をしてみたら、どのぐらい物が見えるのかを確認したかったのです。
さて、登山をするべく、上田市内からバスに乗り、砥石城近くのバス停で降ります。
そこから15分程歩き、砥石城の麓まで行きます。
すると、こういう石碑が出てきます。
なんでしょう、なめているわけではないんですが、ちょっとイラッとします。
宝くじ助成事業にチクろうかと思ってしまいます。
さて、その「なめんなよ!」がどんなものかと言うと・・・なんだよ、楽勝じゃねーかよ。
もう、なんなら爽快だよ。
と、思ったのも束の間、ロープに捕まりながら登るという、ガチ目なアトラクション系のやつが出てきたり、
もはや、遭難したんじゃないかと思うぐらいの道を進んだり、
「この階段、さっきも登ったよね?デジャブかな?」と錯覚するぐらいの階段を延々と登り続け、
ようやく山頂に辿り着きます。
もう、本当に超絶ハードな道のりでした。正直、なめてました。
石碑にイラッとしてしまったこと、宝くじ助成事業にチクろうと思ったことを、この場を借りてお詫び申し上げます。
さて、山頂から南向きに眺めるとこういう景色が広がります。
物見台から見える範囲としてこんな感じでしょうか。
仮に敵が進軍してきたとして、青色の部分はハッキリと見渡せます。
ただ、砥石城から見て、途中の山が邪魔をしているため、下図のオレンジ部分は見えませんでした。
第一次・第二次上田合戦共に、徳川軍が南東から攻めてきたことを考えると、このオレンジ部分が見えないのは、物見台としては致命的です。
となると、多分、下図の通り、他の物見台があったと推測されます。
つまり、砥石城は「物見台」としては部分的な役目しか果たしていない、むしろ「北と東を抑えるための防衛拠点」という役目の方が強かったのかな?と思われます。
ということを実感するために砥石城に登ったわけで、これで当初目的を果たすことが出来ました。
なお、「砥石城からは見えない箇所があることを確認出来た達成感」よりも、「登山による疲労と後悔」の方が大きかったことだけは付記しておきます。
もう二度と登ることは無いでしょう。
さて、話は変わりますが、登山と同じぐらい大変な下山の後、真田温泉へ行ってみました。
「真田家の人たち、ここらへんの温泉入っていたらしいよ!」みたいなことがどこかで紹介されていたので、真田家ゆかりの何かがあるのかと思っていたのですが、そういうのは一切無かったです。ごく普通の温泉施設でした。
ただ、受付で買った手ぬぐいに真田家の家紋(六文銭じゃなくて結び雁金の方)が入っていたのにはテンション上がりましたね。超かっこいい。
もし、温泉でこの手ぬぐいを持ってドヤ顔しているバカがいたら、それは私です。
見かけたら、どうぞ、声はかけずに生ぬるく見守ってやってください。
以上、ついでのお話しでした。
第二次上田合戦までの話(4):上田城の開城交渉
前回までの3行サマリ。
ということで、まずは秀忠軍が上田近くの小諸まで移動します。
九月二日。
徳川秀忠の第二軍は、信州・小諸に到着した。
小諸から上田までは、五里ほどの近距離である。
大体こんな感じです。
前回の第一次上田合戦で出てきた八重原の位置も参考までに載せておきます。
ここで、秀忠は、上田城の真田父子に向けて、
「開城せよ」
との使者を、さしむけることになった。
その正使・副使は、本多忠政と真田信幸に決まっている。
そこで、忠政と信幸は、三十余騎に護られ、上田領内へおもむいた。
信幸は、父・昌幸へ、
「おお、さようか・・・」
真田昌幸は、にこやかに、
「よし、よし。明日、わしが国分寺にまいろう」
ということで、両者が国分寺にて相対することになります。
当時の国分寺の客殿は茅ぶきの屋根で、真田昌幸は早くから此処へ到着し、徳川の使者を迎えた。
武装もせぬ昌幸は、わずか十五名ほどの共を従えたのみである。
ちなみに、今の国分寺はこんな感じです。立派です。茅ぶきではありません。
そのうち、本多忠政と真田信幸も到着し、交渉が開始します。
真田信幸が、
「安房守殿」
と、父へ呼びかけた。
「何でござる?」
「そこもとが石田治部少輔への義理立てもわからぬではないが、いまここでたがいに無益な戦をはじめてみても仕方のなきことと存ずる」
「ははあ・・・」
「いさぎよく、城を明け渡されてはいかが?」
「もしも、われらが城を明け渡したならば、何となさるな?」
「それは・・・」
と、本多忠政が割って入り、真田父子が東軍をはなれて上田城へ帰ったことは、戦後、いっさい不問に付すと言明した。
「それは、かたじけない」
真田昌幸が、本多忠政へ軽く頭を下げ、
「せっかくに、伊豆守殿がまいられたのじゃ。無下にもなるまい」
と、いい出たではないか。
これには信幸よりも本多忠政のほうが興奮し、
「なれば、城を明け渡さるるか?」
と、身を乗り出した。
「よろしゅうござる。これなる伊豆守殿の面目を立てもそう」
と、いった。
「何と申される。では、城を・・・」
「はい、上田の城を明け渡すこと、承知つかまつった」
「す、すりゃ、真でござるか・・・」
「はい。わが子が使者にまいった故・・・」
「なれど、いささか、待っていただきたい」
真田昌幸のつぶやきを耳にして、本多忠政の顔色がふたたび緊張した。
「それがしも左衛門佐も、徳川勢の攻め来らば、すぐる上田攻めの折と同様に、おもうさま蹴散らしてくれようと存じおりまいたが・・・」
「む・・・」
「さればさ。この上田の城へ立てこもり、いさぎよく戦うつもりでおりましたなれば、城の内外がまことに見苦しゅうござる」
「ふうむ・・・」
「何日も汚れほうだいのまま打ち捨ておきまいたゆえ」
「なるほど」
いや、「なるほど」って。
ここはさっさと開城させるべきだよ。城が汚いとかどうでもいいよ。
交渉下手か。
「されば、明け渡すにつき、城の内外を塵一つとどめずに洗い清めた上、秀忠公へお引きわたし申したい。あまりにも、むさ苦しゅう汚れたままの城を明け渡し、これが真田の本城かと、皆みなに笑われても如何なものか・・・」
「もっともでござる」
本多忠政が、好意のうなずきを見せた。
「では、三日ほど猶予が願いたい」
「かならず、三日の後に城を明け渡されるのでござるな」
「二言はござらぬ」
きっぱりと、真田昌幸がこたえた。
完全に「二言でござるフラグ」が立ちまくっています。
なお、信幸もその「二言でござるフラグ」には気付いていたようで、
(おそらく、父上は秀忠公の軍勢を、たとえ一日でも二日でも、でき得る限り、上田へ引きつけておくおつもりらしい)
その日数だけ、第二軍が決戦場へ到着するのを引きのばし、邪魔をするつもりなのだと、信幸は看て取った。
けれども、いま、この場において、真田信幸は、
「父が申すことは、嘘でござる」
と、口をさしはさむわけにもまいらぬ。
そのようなことをしては、正使の本多忠政の、
(顔を潰す・・・)
ことにもなってしまう。
正使の本多忠政が交渉成立によろこんでいるのを、副使の自分が、
「およしなされ」
とは、いえぬではないか。
いやあ・・・「およしなされ」よ。
お前も交渉下手か。
いずれにせよ、これで形式上は交渉が成立します。
使者の一行が国分寺を出て行くとき、真田昌幸は客殿の外まで見送ったが、信幸の顔を一度も見ようとはせぬ。
真田伊豆守信幸の片頬へ、わずかに苦笑がただよったのは、馬上の人となって国分寺を離れてからであった。
さて、小諸に戻った本多忠政は、事の顛末を秀忠に報告します。
徳川秀忠は、本多忠政の報告を聞くや、
「さようか」
満面の笑みをくずして、
「よし、よし。安房守が、おだやかに上田の城を明け渡すなれば、悪しゅうは計らわぬ。豆州(信幸)も安心いたすがよい」
と、いってくれた。
そんな安堵に包まれた徳川軍とは逆に、真田家ではこういう会話が繰り広げられます。
「いかがでありましたか?」
「見せたかったわえ」
「何をで・・・?」
「伊豆守の顔をな」
「どのような・・・?」
「困りきっておったが、感心に口をさしはさまなんだわ」
「こなたの申し出でを、徳川の使者は受けいれまいたか?」
「尻の青い若僧がのう」
「忠政殿・・・」
「いかにも」
もう、徳川軍との約束を破る気満々です。
そして約束の三日目がやってきます。
本多正信は徳川秀忠へ進言をし、物見の騎士たちを上田方面へさしむけてみると、城の清掃どころではない。
城下の町民たちを立ち退かせた後へ柵を設け、武装の真田勢が諸方の木戸を配備している。
ほらー。
言わんこっちゃない。
そこで、徳川は「はよ、城を明け渡さんかい」という使者が出しますが、
真田昌幸は、こういってよこした。
「一時は、本城を明け渡すつもりでござったが、よくよくおもいみるに、亡き太閤殿下の御恩忘れがたく、この上は当上田の城に立てこもり、いさぎよく戦って討死をいたし、わが名を後代にとどめたく存ずる。西上のおついでに、ま、一攻め攻めてごらんあれ」
もう、完全に人をおちょくっています。
そして、その飄々とした感じがとても良い。
真田が上田を明け渡さないと分かった以上、徳川としては攻撃の準備を進める必要があります。
このとき、徳川秀忠は全軍をひきいて小諸を発し、上田の東方二里のところにある染屋の台地へ本陣を構えつつあった。
多分、大体こんな感じです。
本多忠政・真田信幸の報告を聞いた秀忠は、
「ならばよし」
すぐさま、上田攻めの伝令を発した。
ここから第二次上田合戦が始まります。
ということで、次回は、第二次上田合戦について話を進めていきます。
(続く)
第二次上田合戦までの話(3):徳川秀忠、西上
前回までの3行サマリー
さて、第二次上田合戦の話の前に、まずは徳川家の動きを確認しておきましょう。
翌七月二十六日の朝。
正則を前後して、黒田長政・池田輝政・藤堂高虎・山内一豊・浅野幸長など二十将が、昼ごろから午後にかけて陣を引きはらい、西上の途についた。
これが、東軍の先鋒部隊ということになる。
ところで、会津の上杉景勝についてだが、家康は熟考した結果、次男の結城秀康を対象にして残留せしめ、上杉の押さえとした。
これが約二万である。
そして家康は、第二軍の徳川秀忠へ、三万八千の軍団をあたえ、後見として本多佐渡守正信をつけ、中山道から木曽路を経て美濃の国へ進め、わが本軍と合流せしめることにした。
ざっくりですが、大体こんな感じです。
なお、隊を分けた理由ですが、一つの大軍で向かったとして、途中で何か(道が塞がってたとか襲われたとか)あった場合に、計七万の大軍が関ヶ原に到着できなくなるリスクがあるためです。
さて、中山道経路を任された秀忠ですが、一つ問題がありました。中山道を通るとなると、
当然、その途中に、真田父子の上田城が立ちはだかっている。
のです。
ということで、宿敵真田家に精通している真田信幸を帯同させることにします。
上州・沼田城 に待機していた真田伊豆守信幸の許へ、宇都宮に滞陣中の徳川秀忠から書面が届いた。
態々(わざわざ)啓せしめ候。仍て(よって)明二十四日に此地を罷り(まかり)立ち、小県(上田)へ相おもむき候の条、其分御心得候て、彼の表へ御出張あるべく候。
なお、大久保相模守、本多佐渡守申すべく候。恐々謹言。
八月二十三日
秀忠
これを受け、
真田信幸は、約八百の部隊を率いて、徳川秀忠の第二軍に参加するつもりであった。
さらに、信幸は、参加にあたりこう考えます。
この戦闘は長引いてはならぬのだ。短時間のうちに、真田父子を降伏させるか、または城を攻め落としてしまわねばならない。
それでないと第二軍は、これより西上して西軍と決戦する徳川家康の本陣に合流することができない。
約四万の第二軍が決戦場へあらわれなかったときの徳川本軍は、相当の苦戦をまぬがれない。
このクダリを少しだけ補足しておきます。
徳川にとって、「戦に勝つこと」は何よりも大事。ただ、その「勝ち方」も同じぐらい重要だったのです。
これは「恩賞」に大きく関係します。
まず、家康と秀忠が共に予定通り戦場に着いたとします。そうすると、徳川家が東軍の圧倒的兵力を占めながら戦うことになります。そうなると「一番活躍したの、俺ら徳川家だから恩賞(=領地)を一番もらえるのも徳川家だよね?」と言える。
ところが、仮に家康と秀忠のどちらかが間に合わないとします。そうすると、他大名たちに動いてもらう必要が出てきます。つまり、恩賞を分配する段階で他大名たちにも領地を分ける必要が出てくるため、徳川の取り分は少なくなるし、徳川の独裁政権も築くことが出来なくなる。
なので、家康と秀忠、共に、予定通り確実に現地に到着していないと非常にマズイのです。
そういうコトのヤバさを理解しながら、信幸は八百の軍勢を引き連れて秀忠軍に合流します。
さて、
徳川秀忠の第二軍は、上州・松井田へ到着している。
すでに沼田から松井田へ到着していた真田伊豆守信幸が、これを迎えた。
秀忠は、挨拶にあらわれた真田信幸を引見し、
「伊豆守には、さだめし、苦労のことであろうな」
と、いった。
皮肉ではない。
父と弟を敵に回し、戦わねばならぬ信幸の胸の内を察してのものであったろう。
信幸は、
「格別の事にてはござりませぬ」
つとめて冷静に、こたえた。
・・・親兄弟と戦うんだよ、格別のことだよ。
そんな中、軍議がひらかれます。議題は、当然、「上田城をどう攻略するか」でした。
この中で、
第二軍の秀忠を補佐させるため、父の家康がつけてよこした老臣・本多正信は、
「まず、上田へ使者をさしむけ、真田安房守へ、城の明け渡しをすすめてみるがよいかと存ずる」
といい出た。
かつての上田攻めで、徳川軍が真田父子に打ち破られた苦い経験を、本多正信は忘れていない。
勝って負けるとはおもわぬが、さりとて、七日や十日で上田城を、
(攻め落とせるものではない・・・)
ことを、本多正信はわきまえている。
徳川家康は、正信を第二軍へさしむけるにあたり、
「かまえて、遅参いたさぬよう」
と、念を入れた。
四万に近い第二軍が決戦に遅れてしまっては、どうにもならぬ。
だからといって、第二軍が中山道を制圧しておかなくては、家康も安心して決戦場へのぞむことができない。
たとえば・・・。
上田城を放置しておけば、真田昌幸は上杉景勝と連携をたもちつつ、大形にいうなら、
「江戸を奇襲しかねぬ・・・」
のである。
前述の通り、関ヶ原に遅れるのはマズイから、真田は無視して先を急ぎたい。でも、放置しておくのも、なんだか怖い。「だって、あいつら、真田だぜ?きっとなんかやってくるぜ・・・」という一抹の不安が拭いきれない。
そこで、戦うでもなく、無視するでもなく、「城の明け渡し交渉」という選択をするわけです。
本多正信は、徳川秀忠に進言し、上田城へおもむく軍使を二人えらんだ。
一人は、本多美濃守忠政である。
そして、いま一人は、ほかならぬ真田信幸であった。
信幸からしてみれば、大役を任されたわけですから、本来は喜ぶべきところ。
ただ、
(これは、父や弟と戦うよりも、むずかしい・・・)
ことだと言わねばならぬ。
いま、ここで、素直に開城するほどなら、なんで父や弟が徳川にそむいて上田へ帰ったりするものか・・・。
なんてことを考えながら、軍使として、上田へと向かうことになります。
次回は、そこらへんの交渉がどうなったかについて話をしたいと思います。
(続く)