真田太平記をなぞる

なぞりながら解説

第二次上田合戦(3):秀忠のその後、昌幸・幸村のその後

前回までの3行サマリー。

  • 真田家の偵察隊につられて、徳川軍が上田城下まで来る
  • 真田軍が一気に打ち出て、徳川軍が退却する
  • 以上、第二次上田合戦終了

 

さて、前回までのおさらいです。

最終的にはこんな感じで徳川軍を撃退しました。

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ただ、徳川軍、一時的に撤退したのは良いものの、38,000人もいるのです。数で押せば、次こそは真田家に勝てるかもしれないのです。

 

そういうこともあり、

徳川勢の中には、さすがに、たまりかねて突撃して来る部隊もあった

のですが、

徳川秀忠は、急ぎ、

「戦闘中止」

の発令を発し、総軍を本陣近くにまとめ、陣容を立て直した。

 

繰り返しになりますが、秀忠のゴールは、真田を抑えておきながら、自身は予定通り家康の本隊に合流すること。

それなのに、

追撃した徳川勢は、おびただしい死傷者を出してしまった。

何といっても兵力がちがうことだから、上田城を包囲しているかぎりは、真田父子も手が出せぬわけなのだ。

それなのに、巧妙なさそいに乗って、無用の打撃を受けたのである。

 

徳川秀忠の後見人であった本多正信も、かなり焦ったようです。

(かような恥をどのように内府公へ申しあぐればよいのか・・・)

さすがの謀将も、途方にくれたといってよい。

第二軍が上田を引き払い、決戦場へ向かおうとする間際に、このような失態を演じてしまった。しかも十五年前のときと同様、真田父子のさそいに乗せられてのことなのだ。

 

サラリーマンをやってる身としては、この気持ちは分かります。仮に自分がこの失態を役員報告することになったら、恐らく、一通り悶絶し、焦り、その後、どうやって状況を取り繕うかを考え始めると思います。

 

そこで、本多正信が採った行動とは、

無謀の追撃と突進をおこなった牧野忠成、大久保忠隣等に対し、本陣からの軍令を待たずして、

「功を焦るとは何事ぞ」

と、きびしい処分をあたえた。

このとき、杉浦久勝と贄掃部が切腹を命じられたのである。

切腹・・・。

仕事で失敗したりすると「命とられるわけじゃないしさ!」みたいな励ましを受けることがありますが、これって、絶対に戦国時代では使われていなかった励ましであることだけは断言できます。

 

さて、本多正信がこんなことをしている一方で、伊勢山城に陣取っていた真田信幸は、こんなことを思っていたようです。

「ちかごろの男どもは、戦の仕様も忘れたと見える」

苦笑まじりに、洩らしたという。

それに引きかえ、わが父と弟の、あまりにも鮮やかな駆け引きには、

(さすがじゃ)

と、おもわざるを得ない。

自分が、もしも、徳川秀忠本多正信であったなら、このような惨敗を喫することはなかったろう。

それにしても、上田城内で会心の笑みを浮かべながら、酒を酌みかわしている父と弟の姿を想うと、信幸も気が重くなってきた。

 

話を戻しましょう。

再三になりますが、秀忠のゴールは、家康本隊に遅滞なく合流することです。もう、こんな戦いに付き合っている余裕はありません。

 

そこで、

徳川秀忠は、七日の朝に、またも本陣を小諸へ戻した。

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上田城外の染屋の台地から、本陣を小諸へもどしたのは、老臣・本多佐渡守正信の強硬な進言によるものであった。

こちらは四万に近い大軍であるし、上田籠城の真田勢は三千数百にすぎぬ。

戦って負けるはずもないが、三日や五日で、城が落ちるとも考えられぬ。

それに、秀忠本陣が上田城外に在れば、

(また、どのような奇襲を仕かけてくるやも知れぬ)

このことであった。

 

もう、相当に疑心暗鬼だったんでしょうね。

第一次上田合戦と同じ失敗を繰り返しているし、それだけでも大目玉案件なのに、これ以上失敗を重ねてしまったら、もう、本当に取り返しがつかなくなります。

 

さらに、このタイミングで家康から「俺もそろそろ出発するから、木曽路経由の美濃合流でよろしく」という便りが届きます。

いよいよ真田家なんか放っておき、道中を急ぐ必要が出てきました。

 

さて、秀忠が抱えた次なる問題は、小諸からどうやって木曽路まで行くか、です。

信州・小諸を発した徳川秀忠の第二軍が木曽路へ出るには、丸子から長久保を経て、和田峠を越え、諏訪から木曽路へ入るのが順路であった。 

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ところが、本多正信は、

「なればこそ、危うござる」

と、いい出した。

和田峠越えの沿道にあたる長久保・武石などには、真田昌幸の砦があり、おそらく兵も入っていよう。

これと呼応して、上田城の真田父子が、

「何をたくらむや、知れたものではおざらぬ」

と、いうのである。

榊原康政は、

「何を申されることか。真田勢が来らば迎え撃つまででござる。何を恐れなさる」

厳しく反対をした。

そう、その通りなのです。真田は所詮、3,800の小勢。攻めてきたら多少の兵でこれを食い止め、秀忠の本軍は最短ルートで進めば良いのです。

 

しかし、正信は、もう、これ以上失敗を重ねたくない。そういうこともあり、

和田峠越えをやめ、小諸から左へ迂回し、布引から八幡を経て、大門峠越えに木曽路へ出たほうが、

「無事でおざろう」

と、主張する。 

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結局、徳川秀忠は、この、父がさしむけた後見役の意見を採用することにした。

 

ところが、この本多正信の選択は完全に裏目に出ます。

榊原康政は、

「勝手になされ!」

一千の部隊をひきい、堂々と和田峠を越えて諏訪に到着した。

ところが、秀忠の第二軍は、なかなかに到着せぬ。

大門峠の嶮岨な山道・崖道の行軍に難渋し、おもいのほかに時間がかかってしまったのだ。

谷へ落ちた兵士もいるし、秀忠も木の枝に兜を引きかけられ、馬から落ちたりした。

ようやくに、秀忠軍が諏訪へ到着したのは、九月十三日であった。

 

そして、

同じく、九月十三日。

徳川家康の本陣は、尾張清洲城を出て、ついに美濃へ入り、岐阜城へ到着している。

遅刻がほぼ確定しましたね。

 

一方、

上田城では・・・。

木曾路へ向かった徳川秀忠の第二軍の様子が、つぎつぎに草の者から届けられていた。

「草の者」というのは、いわゆる忍者のことです。

 

左衛門佐幸村が、昌幸に、

「父上。徳川勢は、どうやら大門越えを致すようでござる」

「何故じゃ?」

昌幸は、不審にたえぬ面持ち出会った。

「何を持って、あのような嶮路に大軍をすすめるのじゃ?」

「さて・・・それがしには、わかりかねます」

「徳川の者どもは、奇妙なことをするものじゃな」

「われらが討って出るのを、恐れているのやも知れませぬ」

「なれど、左衛門佐。われらが討って出ようとおもえば、かえって大門越えのほうが危ういぞよ。こなたは三十名も出して、おもしろいように徳川勢を谷底へ転げ落として見しょう。どうじゃ、やってみるかの」

「それはかまいませぬが・・・いまとなっては同じことでござる」

「ふむ。われらは為すべきことを為したゆえ、な」

「武蔵守(秀忠)がひきいる大軍は、到底、決戦の当日に間に合いますまい」

「さようにおもうか。わしはな、いま少し、上田へ引きつけておきたかった。まだまだ、こころもとない気もいたすが・・・」

「いや、父上・・・」

いいさして、真田幸村は押し黙り、かなり長い時間瞑目していたが、ややあって、

「間にあいますまい。大丈夫でござる」

きっぱりと、いった。

そして、秀忠は実際に家康本隊に合流することはかなわなかったのです。

 

「もしも、うまく間に合わなんだときは、われらのみで四万の徳川勢を引き受けたことになるわえ」

「いかさま」

「これなれば、いかに治部(三成)とても、負くることはあるまい」

「宇喜多、島津、小西など、まずは頼むに足りましょう」

「ふむ、ふむ・・・」

つまり、これで、昌幸たちはこれで西軍の勝ちを確信したのです。

 

そりゃそうだ。

関ヶ原においては:

  • 東軍:80,000
  • 西軍:100,000

と言われています。

この兵力については諸説ありますが、最早、そんなことはどうでも良いのです。このブログにおいて大事なのは、ザックリ上記のような戦力差があった中で、真田家の足止めもあり、秀忠軍40,000が関ヶ原に間に合わなかった、ということなのです。

そして、ここまでお膳立てすれば、西軍もさすがに勝てるだろう、と確信したのです。

 

ところが、実際は違った。

関ヶ原にて東軍と対峙した西軍は、わずか数時間で大敗を喫するのです。

後に、関ヶ原における敗北を耳にした真田安房守昌幸が、

「これは、どうしたことじゃ?」

呆れ果て、また、不審にたえぬ面持ちで、

「上方勢は、小児の戦遊びをしていたのか・・・」

と、いったそうな。 

約十倍もの徳川第二軍を上田城へ引きつけ、これが決戦場へ参加することを阻んでやったのだ。

三成はさておき、小西行長宇喜多秀家もいる。島津義弘大谷吉継もいた。

そうした人びとが、

「何故、勝とうとしなかったのか・・・?」

さらに、後のことだが、当日の戦況を知ったときの昌幸と幸村の失望は、

「あまりに愚かしく、なさけなく、正気の沙汰ともおもえぬ・・・」

ほどのものといってよかった。

幸村は、

「これは父上、私がたとえ百の兵を引きつれてでも、上方へ残っているべきでありました」

いかにも残念そうにいった。

この真田幸村の言葉が、ただの強がりや誇張ではないことは、十五年後に、幸村自身が立証してみせることになる。

 

この後、真田家は結果的に、西軍の敗将の一人となり、色々なイベントを経て、和歌山県九度山に幽閉されます。そして、昌幸はこの地で人生の幕引きをすることになります。

あれだけ鮮やかに徳川軍をてんてこ舞いにさせた武将としては、何とも寂しい最後でした。

 

ただ、二度に渡り、徳川の大軍を追い払った功績は世間にも認められていました。

そして、その功績は、昌幸が上田を去り、九度山で生涯を終えた後も上田の人たちの誇りとして語り継がれていたのです。

以下、過去にも紹介したことがありますが、上田高等学校の校歌(2番)の歌詞です。

 

関(くわん)八州の精鋭をここに挫(くじ)きし英雄の
義心(こころ)のあとは今もなほ松尾が丘の花と咲く

www.nagano-c.ed.jp

 

この歌詞、徳川軍を退けたことを誇らしく表現をしているのと同時に、どこか、昌幸・幸村の無念を汲んだ、物寂しげな余韻が含まれています。こう、なんというかグッとくるものがあります。

 

ちなみに、会社の後輩に上田高等学校出身者がいたので、「校歌の2番がさ・・・」と熱く語ってみたところ、「そんな歌詞でしたっけ?」と言われ、ガックリしました。

世の中、そんなもんです。

 

さて、第二次上田合戦の後は、関ヶ原九度山幽閉、大阪冬の陣・夏の陣・・・と続いていきます。

果てしなく長い話なので、このブログで続きを書くかどうか迷っていますが、気が向いたら書いてみたいと思います(多分、書かない)。

期待せずお待ちください。