真田太平記をなぞる

なぞりながら解説

第二次上田合戦(1):38,000 vs 3,500

前回までの3行サマリー

  • 徳川の特使が、上田城を徳川に明け渡すことを要求
  • 真田昌幸、これを快諾。でも二言でござった。
  • 徳川軍が激おこ、真田攻めを開始する

というわけで、第二次上田合戦の開始です。

 

まず、徳川と真田の兵力差を確認しましょう。

 

徳川の38,000人に対して、

上田城真田昌幸・幸村父子の戦力は、

(三千五百ほどか・・・)

と、伊豆守信幸は診ている。

だそうです。 

 

つまり、真田家は3,500で、兵力差10倍の徳川軍と対決することになったわけです。

 

ただ、例によって3,500とか38,000とか言われてもなかなかピンと来ません。

というわけで、上田城の周りに、実際の縮尺で徳川38,000と真田3,500を落とし込んでみました。

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・・・うーん、これもピンと来ないなあ。

 

前回は渋谷駅付近にプロットしましたが、今度は新宿駅周りに落とし込んでみましょう。

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真田軍は、小田急百貨店のワンフロアーが、ビッシリ人で埋まるぐらい。

徳川軍は、横が紀伊國屋から伊勢丹、縦が伊勢丹から髙島屋ぐらいまで。

うむ、かなりわかりやすい。

 

それにしても、小田急のワンフロアーで新宿駅東口に対抗しようとするとか、無謀だろ・・・。 

 

続いて、それぞれの布陣について確認していきましょう。

真田太平記によると、徳川軍は「染屋台」に陣を敷いたとあります。

ただ、「染屋台」って結構エリアが広いんですよね。

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過去記事:第一次上田合戦(2):しつこくゲリラ戦でも紹介した通り、下図の水色の線あたりは「自転車だと手押しじゃないと登れないぐらいの斜面」になっています。

そんな急斜面を、38,000もの大軍を率いて登るとは思えないので、多分、こんな感じで陣を敷いたのではないかと推測しています。

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ちなみに、陣形がどうなっていたかは、真田太平記でもGoogle先生でも出てこないので、超適当な想像です。異論は認めます。

 

さて、対する真田家はどういう布陣を敷いたのか。

 

まず、真田昌幸上田城に籠もります。 

一方で、

真田左衛門佐幸村は、七百余の兵をひきい、伊勢山の城へ入っていた。 

伊勢山の城というのは、つまり、砥石城の一部といってよい。

砥石城は、上田城の東北約一里のところにあり、二つの峰を中心に、いくつもの曲輪が設けられてい、北の峰に、かつての〔本丸〕があった。

伊勢山城は、南の峰の〔米山曲輪〕の東方の峰に築かれている。

 

例によって、真田太平記の説明がざっくりしているため「伊勢山の城」の正確な位置が分からないのですが、多分、ここらへんです。

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ここに陣を配置すれば、徳川軍は後方を意識せざるを得ず、どうにも動きづらくなります。

 

 

というわけで、双方、このような陣形で第二次上田合戦が開始します。

 

その中で、まず、

徳川本陣から、部隊が動きはじめた。

伊勢山城の攻撃部隊である。

先鋒は、真田信幸・榊原康政の両部隊に本多忠政が加わっている。

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徳川軍が、上田城ではなく伊勢山城を先に攻略しようとした理由は、単純に「後ろから攻められて混乱するのが嫌だから」だと思われます。

 

いよいよ、信幸が、弟の幸村と戦う日が来た。

伊勢山城の櫓の上から、左衛門佐幸村は兄の部隊が段丘を越えて、こなたへ進んで来るのを見ている。

「やはりのう・・・」

幸村は、仕方もなさそうに笑い出した。

「兄上が先陣か・・・さもあろう」

 

なお、伊勢山城(があったと思われる場所)には、現在、このような趣きのある落書きアートが飾られている櫓が建っています。

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この落書きアートは、真田十勇士の誰かっぽいです。

真田十勇士なんて江戸時代の講談の創作なのに)

 

この櫓に登り、南側を見ると、

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こんな感じの景色が広がります。遠くまで見渡せるし、櫓を建てるならここしかないだろう、という立地です。

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というわけで、こういう櫓から真田の旗印を掲げた信幸軍がやってくるのが見えたのでしょう。 

 

さて、兄の旗印を見た幸村はどうしたのか。

兄の部隊が真っ先に進んで来るのを、しばらくは見まもっていた幸村が、突然に、

「上田へ引きあげよ」

と、命を下した。

「何とて、伊勢山を、戦わずしてお捨てなされます?」

家来たちが、咎めるように問い詰めてきた。

もっともである。

伊勢山城を捨てることは、外部から上田の本城を助成できぬことになるからだ。

本城の攻防戦がはじまれば、

「最も、たのみになる・・・」

遊撃部隊ということなのだ。

 

この伊勢山城の部隊がいるからこそ、徳川軍は攻めにくくなっているわけだし、何よりも、徳川軍が兵を割いてまで伊勢山城攻略をしようとしたぐらいの重要拠点なわけです。

それを「戦わずして放棄しろ」って、どゆこと?ということに当然なりますよね。

 

だが、左衛門佐幸村は、反対を唱える家来たちへ、こういった。

「兄上と戦するわけにもまいるまい」

「急げ」

幸村は敏速に兵をまとめ、尾根づたいに〔米山曲輪〕を抜け、東太郎山の山腹を引き上げていく。

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ちなみに、この「東太郎山の山腹」というのは、別記事:(ついでのお話)砥石城と真田温泉についてでも紹介した通り、超ガチでハードな道です。これを通ったとか、本当に正気の沙汰とは思えません。

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さて、「幸村はなぜ戦わずして陣を引いたのか」については色々な理由があると思います。

 

一つは、徳川方と戦うことによって、真田側の戦力を消耗したくなかった、という理由です。元々、徳川と真田の戦力差は圧倒的なわけですし、まともに戦っても勝てるわけがない。

また、徳川の戦力を(多少であったとしても)本陣から引き離し、上田城への攻撃を少しでも和らげようということも理由として挙げられるかもしれません。

 

ただ、一番の理由は、徳川家における信幸の面目を保つことだと思われます。

というのも、伊勢山城の無血開城の連絡を受け、

徳川秀忠は、大いによろこんだ。

「さすがに、伊豆守殿じゃ」

と、本多忠政も姉聟の信幸を称賛してやまない。

それまでは、「家名を残そうとして、親子兄弟が敵味方に別れたのであろう」

などと蔭口をしていた徳川の武将たちも、真田信幸を見直したようであった。

ただ、信幸はそもそも戦ってすらいないわけですし、この程度で面目躍如になったのかどうか・・・。

 

いずれにせよ、上田城攻略に向けた重要拠点であった伊勢山城は徳川軍の手中に入ったわけです。

 

その上で、

秀忠としては、真田信幸が伊勢山を奪い取ったので、上田本城の抵抗にも限度があると診た。

徳川秀忠は、後見の本多正信に計り、伊勢山城へ精鋭部隊を残し、上田城を押さえさせ、みずからは第二軍をひきい、父・家康の本軍へ一日も早く合流することにした。

そう、秀忠の本来の目的は、過去記事:第二次上田合戦の話(3):徳川秀忠、西上でも説明した通り、「適切なタイミングで家康と合流すること、くれぐれも遅参せぬよう」なのです。

よって、秀忠は「さすがにこの状況下で真田に負けることは無いだろう」という判断を下し、自分は家康と合流すべく先を急ぐことにしたわけです。

 

ただ、そうは問屋が卸しません。

真田家の目的は、「この戦に勝つ」ではなく、「徳川軍を関ヶ原で勝たせないようにする=秀忠と家康の合流阻止」だったのです。なので、意地でも秀忠軍をここで引き止める必要があります。

そこで、真田家が次なる仕掛けを発動させます。

 

次回はそこらへんを説明していきたいと思います。

 

(続く)

 

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